天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

満州事変の正当性

2016-04-20 17:26:38 | 歴史
今回は満州事変の発端とされ、自作自演、謀略とされる柳条湖事件には敢えて触れず、満州事変に至るまでを年表形式で見る事によって、今迄侵略しかも、謀略までして戦う正当性が垣間見えるのでないでしょうか。日本と支那人、満州人だけでなく、ソ連やアメリカの動きを加えることでより分かりやすくなっています。






(明治27年)日清戦争

(明治29年)露清密約

(明治31年 )米、ハワイを併合

(明治32年 )米、フィリピンを併合

(明治33年)義和団の乱(北清事変)ロシアの軍隊は混乱に乗じて満州全域を占領、更に南下し北朝鮮へ
米、列国と並んで出兵し、事変終了後には列国同様の権益(居留民保護のための駐兵権等)を獲得


(明治37年)2月日露戦争 満州人口【1000万】
清朝(満州人)は自分たちの郷里である満州に支那人(漢民族)が入ることを嫌っていたため満州はあまり人口が多くなかった。

5月ユダヤ系米人ジェイコブ.シフは2億ドルの融資を通じて日本を強力に資金援助、ロシアでの反ユダヤ主義(ポグロム)に対する報復と言われる。


(明治38年)ポーツマス条約 満州を清国に返還。
米、満州に影響力を拡大しようと日本を支援して戦争終結の調停役を務めつつ、戦争中に満州との貿易を拡大させた。その貿易額は満州における列国の全貿易額の38%を占めるにいたった。これに乗じてアメリカの鉄道王ハリマンは、日本がロシアから接収した満鉄の買収を申し出た。



(明治39年)満鉄設立。南満洲鉄道の経営を始めた。
荒地に鉄道を敷き、産業を興して繁栄の元を築き、関東軍によって治安を確保。内乱のない平和な別天地として発展満州の貿易額は支那の2.5倍



(明治41年)清で愛新覚羅溥儀が即位2歳


(明治42年)伊藤博文暗殺
米、満州諸鉄道の国際管理を提案し、満州の鉄道権益への介入、いずれも失敗に終わった。



(明治43年)朝鮮併合



(明治44年)辛亥革命 支那では革命政府が2つも3つも現れて統制が利かず、軍閥同士が四六時中戦争
満州には強力な関東軍がいるために戦争出来ず
【1800万人】
清朝崩壊後に、支那の治安は乱れ、排日運動激化
満州だけでなく支那においても侮日行為・鉄道妨害などの事件が多発。日本の企業に勤めている支那人に対しても脅迫行為がおよび、いたるところにビラが貼られて反日スローガンで埋め尽くされる。これらの反日排日運動の背後には国民党・支那共産党がおり、さらにその背後にはアメリカ、イギリス、ソ連(コミンテルン)がいた。


(明治45年)中華民国が樹立


(大正4年)日華条約 南満州での日本人(外国人)が商工業・農業を営むため支那の土地を租借する権利を認められたにもかかわらず、張作霖・張学良は日本人に土地を貸した者を死刑


(大正6年 )ロシア革命、ロシアはソ連に、コミンテルンを設立、世界の共産化を推進する政策を開始


(大正10年 )ソ連軍はロシア革命で敗れた白系ロシア人追撃を名目に外蒙古に侵入し、同地域において略奪はおろか老若男女の別なく虐殺を行い「蒙古人民革命政府」を樹立
ソ連コミンテルンは中国共産党の満州支部に武装暴動を起こす事を指令


(大正12年)9月 関東大震災

溥儀は即座に日本政府に対する義捐金を送ることを表明し、併せて紫禁城内にある膨大な宝石などを送り、日本側で換金し義捐金とするように日本の芳沢謙吉公使に伝えた。なおこれに対し日本政府は、換金せずに評価額と同じ金額を皇室から支出し、宝石などは皇室財産として保管することを申し出た。その後日本政府は代表団を溥儀のもとに送り、この恩に謝した。


(大正13年 )ソ連「蒙古人民共和国」衛星国を建設

9月 北京政変 溥儀を紫禁城から追放




(昭和2年)南満州鉄道(東支鉄道の南支線)と競合する鉄道の建設は禁止されていたのだが張作霖が満鉄併行線敷設禁止協定を無視して満鉄併行線を建設した。米、資本を提供して協力。

日本の満鉄は衰微

北京政府を支配していた張作霖は、
中国の共産化を警戒し、ソ連大使館をいっせい捜索して秘密文書を押収した。
それには中国の共産化のため、孫文によって新たに樹立された広東国民党政府
を援助する旨が記されていた。


(昭和3年) (子)張学良はソ連が従来より支配していた東支鉄道全線に軍隊を配置し、接収をはかろうとしていたが、ソ連は陸空軍をもって一挙に東支鉄道の軍事占領を敢行、東支鉄道のみならず、
北西満州は完全にソ連軍の影響下に入ることとなった。


(昭和4年 )コミンテルン「全満暴動委員会」を組織させ、共産パルチザン(極左暴力革命集団)活動を推進し、その拠点を東満州一帯に広げた。
7月に浜口雄幸内閣が成立、軟弱外交で有名な幣原喜重郎がまたしても外相に弊害がすでにあきらかだったはずの「幣原外交」が再開されてしまった。



(昭和5年~10年)
間島省、安東省、吉林省、奉天省など東満州に作られた共産軍遊撃区が彼らの活動拠点である。
反日活動を展開するパルチザン部隊は数10名を単位として、たえず移動して放火、略奪、暴行事件




(昭和6年)に入ると満州の日本企業や日本人は営業したり、日々働くことさえ難しくなっていく。

満鉄では、枕木を引き抜かれるような事件も頻発
万鉄の付属地の外にいる日本人は、度重なる営業妨害でまったく商売出来ず、付属地の中に逃げ込むようになる。
交渉相手の満州地方政権、張学良は
「我々に権限はない、南京国民政府と話してくれ」と交渉を拒否。当時80万人いた在満朝鮮人農民に対して支那人が迫害を加えた。
これに対しても東京の日本政府は形式的な抗議のみ、「日本人は朝鮮人を保護してくれない」という世論が朝鮮の中で高まり、朝鮮人まで日本の統治に不信感を強める。

そこで、「幣原外交たのむに足らず」と在満邦人が結束して団体や結社を作り、関東軍に直接働きかけるようになっていった。

そして、中村大尉殺害事件(6月27日)と万宝山事件(7月2日)などで
満州は限界まで緊迫した状態になっており、支那側が中村大尉の殺害を認めた日の夜、柳条湖事件(満洲事変)が勃発したのである。

9月ごろには満州を巡る日本と支那の間の懸案は実在満朝鮮人(日韓併合後は日本人とされた)迫害やテロを含めるとに300件を上回っていた。

ソ連は、満州付近に大軍を集結させていた。
ソ連との軍事力の差は日露戦争当時よりも拡大しており、満州に駐屯していた関東軍の危機感は強まる一方だった。

ソ連の軍事的脅威をはねのけ、かつ日本人居留民を保護しようというのが、
満州事変のそもそもの目的だった。

(昭和6年)9月18日 満州事変 【3000万人】

米、対日戦充実のための、年間戦車100台、飛行機数10機、弾丸100万発の生産能力のある兵器工場建設を援助した。アメリカは満州における影響力を増大させていった。


張学良軍はほとんど無抵抗で退却、
わずか二ヶ月で関東軍は全満州を占領した。

関東軍の1万数千人に対し、張学良軍は30~40万人いたのだが、張学良軍は、シナの軍隊の常である馬賊・匪賊の寄せ集めで満州の民衆の支持をまったく得ていなかった。

張作霖・張学良時代、満州の民衆は悪政
(国家予算の85%が軍事費、数年先分までの税金の前払いを強制、など)に苦しめられていたために関東軍は難なく満州を占領できたのである。



(昭和9年) 溥儀 満洲国皇帝(康徳帝)に即位







4半世紀にわたるシナの排日侮日政策の必然的結果
満州地方の安全を維持するため、溥儀を迎えて満州国を作ったことを侵略と判断出来るのはその後の太平洋戦争に勝利し開かれた東京裁判に於いて溥儀に偽証させた米国だけでしょう。
つまり、この当時の関東軍だけが正義であり、容認した日本政府さえも同国でありながら結果的には見捨てざるを得なかったと言えます。
70年以上経過した日本人が侵略と呼ぶ偽善こそ駆逐しなければならない敵であることがおわかりになったのではないでしょうか。