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虎ノ門ニュースで青山繁晴氏が紹介した福岡市博多区東公園にある日蓮聖人像の台座にはめ込まれた元寇に関するレリーフには元軍が対馬で行った蛮行が描かれている。
青山氏によれば高麗兵が地元住民の女性の手のひらに剣を突き刺す場面が描かれており、食料として船に吊るすためとの残忍な解説があった。対馬の国防との観点から話しておられた。
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その古戦場である東公園に、戦没者の霊を慰め世界平和を祈るために明治37年11月8日銅像が建立されている。
普通元寇といえば神風が二度吹き元軍は撤退したというのがオーソドックスであり、あまり被害的には語られないのが教科書レベルだろう。
日蓮宗の開祖である日蓮聖人は、「立正安国論」の中で外国からの侵略を予言し、「文永の役」「弘安の役」と2度の元軍の侵攻により適中させたといわれているカルト的な表現が少し気になる。
文永の役の2年後に日蓮が伝聞として対馬の惨状を残している。
『去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者、カタメテ有シ総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)』
— 『日蓮書状』
どうやら船に吊るされ奴隷として献上されていたようであるがどちらにせよ多くの一般住民が虐殺または捕らえられたことに変わりはない。
元寇は文永の役が1274年、2度目を弘安の役1281年である。立正安国論は1260年に鎌倉幕府北条時頼に対し提出した書である。
どうやら立正安国論は予言の書のようであるが、今の時代で言えば日蓮は作家兼ジャーナリストといった感じであり、陰謀論者でもあったようだ。
北条時頼に対して法華経を信仰し、邪宗を無くさなければ国が滅ぶと主張、また対処法が「南無妙法蓮華経」の念仏を唱えるだけとの極めて排他的、カルト的宗教であったため流罪になっている。
創価学会は日蓮の書を御書としている宗教団体であることは信者でなくとも知られている。国難に対し他宗教を認めず念仏を唱えることが対処法の日蓮と9条改正に消極的である公明党 。日蓮と同じようにカルト的な本質は鎌倉時代とそれ程変わっていないと感じてしまう。
北条時頼は日蓮を流罪にはしたものの宗教として弾圧はしなかった。日本はこの頃からいい国だったかもしれない。
仮に陰謀論が許されるのであれば日蓮は何らかの情報を知り得る人物であった可能性も否めない。
何故邪教と他の宗教を排斥するのか、まるで人の弱みに付け込んで高価な壺を売る新興宗教のようでもある。
外国からの侵略を予言したところまでは大目に見るとして、兵の増強を訴える訳でもなく、避難を呼びかけるでもない。邪教を捨てお経を唱える事が侵略に備えることならば、日蓮はカルト教祖か詐欺師の祖であろう。
いずれにせよ元寇の残虐性や日本の被害的詳細が教科書になるまではもう少し時間を要するだろう。