
一番目にするのが「南京大虐殺はなかった」という主張に対して『南京事件は、研究者によって、歴史学的に確定した史実で、日本の戦争犯罪である』といった反論だ。
このようにボタンのかけ違いのような議論が何故彼方此方で起きるのだろうか。
先ず烈火のごとく湧き上がる反論者に関して感じることを示したい。
*彼等は南京事件と南京大虐殺を同一に捉えて反論している。
南京大虐殺は無かったと主張する者に対して南京事件はあったと反論している。これは政府見解の
「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」との曖昧な見解を利用、この事を取り立てて肯定論を強化確定しているに過ぎないのであり、見解に沿った人数は諸説ある、との部分もそのまま同じように付け加えている。
つまりは虐殺を定義せず、大虐殺とは諸説ある人数ではなく、曖昧で否定出来ないイメージ側に極めて推察的に政府見解の前段部分にかけられている。
*非戦闘員との呼称の利用
非戦闘員を民間人としないことで便衣兵、敗残兵、女子供を含む民間人と無制限に拡大解釈出来るが、議論しないか、反論の材料としている。
要するに単純明解で、政府が否定出来ないものを否定したとの罪悪感を引き出すためにネトウヨや歴史修正主義者のレッテルを貼り揶揄するのである。
従って『研究者によって、歴史学的に確定した史実』という極めて曖昧で抽象的な決まり文句一辺倒に陥るのである。
次に大虐殺は無かったと否定する者に関して示す。
*南京大虐殺と南京事件を別々と捉えている。
中国が記念館まで建てて主張する30万人という膨大な数の虐殺はなかった。と南京事件に関しては触れていない。つまり、虐殺そのものではなく、30万のナンセンスな数を否定しているのであり、この点に関しては諸説ある部分と重なって主張的にはやや劣勢であるのだ。
否定者側のスタンスは真実が単に知りたいだけであり、極端な排外主義やレイシズムそれに極右思想である訳ではない。
この様なボタンのかけ違いこそ戦後体制や占領政策の爪痕であり、思想分断なのだろう。日本人同士の対立は両者日本の未来を想像しながら激しくぶつかり合うのである。
戦後謝り続けた日本政府が安倍政権から未来志向で不戦と友好を望む政府へと変わる事をモリカケで良しとしない勢力は国家の概念が著しく低く70年以上も前の政府と重ねてあの時の加害性ばかりを強調する。
反安倍が反日の証しであることの自覚症状は未だに現れない。この国は半分死んでいる様にさえ思えて仕方がない。