日本政府は過去の戦争の判断を避け、未来的に侵略戦争は行わないとしている。
この曖昧な態度こそが近隣諸国条項で付け入る隙を与え所謂南京事件や慰安婦像問題という難題に対処を迫られているうちに判断する機会を失い、歴史家に丸投げとなっているのが現状だ。
日本のあの戦争は一体どんな戦いだったのか?との問いに対して日本政府ははっきりと断言する立場にないということだ。
左派が目の色を変えて狙うのが安倍おろしであり、その真の目的が「日本の侵略戦争」、つまり「あの戦争は侵略戦争であった」という歴史認識の共有なのである。
その中心でメディアはその長老と言ってもいい、田原総一郎に「日本の侵略戦争」と地上波で言わしめた。
問題はそのことが問題にならないことであり、その後の「キチガイ」という放送禁止用語のほうが問題視されてしまっている。
つまり、安倍政権が終われば日本の戦争が侵略戦争であったことにおそらくは誰も主張しなくなるか、黙殺されてしまうのであろう。
HINOMARUという歌を歌うと問題になる国である。この国は国歌すら堂々と歌えないのである。
なにも日の丸や国歌だけではない。日本スゴイ、日本強いとの日本アゲ自体を嫌い、彼等の中に愛国心はおろかその対象である国家観が欠落してしまっているのだ。
戦争を反省謝罪することが海外からどのように映るかは無頓着な日本人、つまり悪い事をしていないのに反省謝罪する日本が理解不能であろう。
恒久の平和を望むことと二度と戦争を繰り返さないことは同義であるが、行き過ぎた反省謝罪はかえって逆効果となり、日本が本当に死んでしまうことになりかねない。
日本人の戦争体験者がやたらと長寿で団塊の世代以降が短命であると感じるのは私だけではない筈である。
愛国心の欠落、護るべきものが無くなった時、人は生きる価値を失う。