「憂う」について考える。(6-2)
大阪市立高校バスケット部の事件で、クラブ顧問を擁護する意見が出始めた。
これに私は「憂い」を禁じえない。擁護する意見の大半が、嘗てこの顧問教師が数々の実績を上げてきたことをあげている。事実そうであろう。だがここで、冷静に過去の栄光がどのような形で成し遂げられたのか、考えてみる必要がある。
正々堂々の勝負をして勝ち得たものなのか、はたまた相手のシュートに対しファールをしてまで阻止し、俗にいう勝つだけのバスケットを行ってきたのではないか、と危惧するのである。おそらく後者であろう。指導者が自らの名誉や、地位のための指導を行うと必ずやこうした事犯を引き起こすのである。
前回の記事でこうした指導者の元で育った人間は、建設現場などで働くとその行動が手に取るように解ってくると書いた。おそらく他の産業で働いても同じ結果が出るように思う。良い例が、三菱自動車のリコール隠しである。「ばれなければいいじゃないか」という精神行動がそこに発生している。三菱自動車は多くの、社会人チームを要している。何の為かと言えば、企業イメージのアップのために存在する。イメージアップするには勝たねばならない。そこに落とし穴が待っている。
そのチームが勝つために、手段を選ばない指導者を迎えたら、必ずや企業まで手段を選ばない企業になっていく。当然の結果である。
高校学校生のスポーツは、教育基本法を中心に運営されるべく位置づけられているのである。だから、大会出場時は、出席扱いであり、いろいろな配慮がなされている。
一方指導者は社会人として、六法と呼ばれる法律に従い生活し、社会活動するように義務づけられている。たとえ特別な能力があってもそのことによって、刑法や、民事訴訟法などから特別な扱いを受けるものではない。ただしひとつだけ例外が存在する。それは、「人命救助」の表彰をうっけた者は刑事訴追されることは無い。ただし、逸れは一度だけである。
生徒に暴力を振るうという、社会人として最低限の法律を守れない人間が、教育現場に存在したこと自体が、大阪市の教育現場の汚点なのである。おそらく推測するに、大阪市教育委員会は、この教師の過去のじっせきから、自供以外の調査をしなかったのであろう。
今日のスポーツの中で、サッカーが是ほど隆盛を極めると誰が予想したであろうか。Jリーグをはじめ、なでしこジャパンの国際舞台での活躍。誰も今日の姿を予想した人間は少ないと思う。
私は、メキシコオリンピックの時、サッカーが銅メダルに輝いたときはサッカーの隆盛を予測し得なかった。しかし閉会式のとき、日本サッカーチームに、「フェアープレイ賞」が送られたとき、日本のサッカー界の夜明けが来たと叫んだ。メキシコオリンピックに参加した全ての人間、チームのなかで最高の評価を受けたのである。
その時、大きな転機が訪れたと感じた。その後の日本サッカー界の活躍は、皆さんよくご存知であろう。「フェアープレイ賞」を受けたことにより、日本国中のサッカー指導者が、正々堂々のサッカーに向けて、一斉に動き始めたのである。その結果が今日のサッカー隆盛、国際社会における評価になったことを、よくよくかみ締めていただきたい。
特に、大阪市と、日本バスケット協会には根本的組織改革を行い、理想とするバスケットボールの有り方から検討しなおし、特に高等学校における外国人留学生に対する対応を早急に行っていただきたい。其れを行わない限り、バスケットボウルは、三流の球技としての位置づけしか与えられることは無いであろう。野球、サッカー、バーレーボウル、ホッケーに伍してその地位を得てほしい。
ここで私の「憂い」から発想した提案をしたい。中学校、高等学校のクラブ活動指導を、複数にし日々の活動内容報告を義務付けることである。また、全ての学校行事での責任を、校長が取るという制約書を提出しない限り、校長の席に着かせないように、学校教育法を改正すべきである。組織の長たるもののあり方である。