「憂う」について考える(3)。
いま人類は、地球温暖化について「憂いている」。
二酸化炭素をはじめとする、温暖化ガスの規制を強化しようと取り組んできたが、私は以前から釈然としなかった。温暖化ガスだけが悪者なのだろうかと。セメント工場では、大量の石炭やエネルギーを使い、製紙工場や化学工場でも使用している。出てきた冷却水は、大きな溜池や熱交換器で冷却され再び冷却水として使用されている。実に無駄がない。熱水に関しては、今日では発電に使用し、いろいろ工夫をしているようだが、最終的には熱として地球上に放出されるのだ。つまり、経済活動とはエネルギーの使用であり、熱の発生をさせることなのである。産業革命以来この仕組みは変わらない。たとえ動力が電池のなろうとも、電池の制作過程では、必ず熱エネルギーが必要なのである。どうも我々は、TVコマーシャルで誤魔化されているのではなかろうか。経済が発展すればするほど、エネルギーを発生させる。一方熱エネルギーを吸収させる研究はあまり聞かない。
太陽光発電を使用しようと、風力発電を使用しようと、この地球にエネルギーを撒き散らすことには違いない。ただ言えることは、原子力発電のような危険性がないことだけである。韓国は今年度から原発の解体が始まる。いくらのコストが必要で、どんな技術が必要なのか全く未知数だそうである。しかし、この難工事に取り組むという。ここで得た技術を持って、世界の原発の解体を請け負うのが目的だそうである。これは国策だそうで、国家を挙げて支援するそうである。
そで私は「憂う」のである。人間が造ったものでものである、から必ず人間の技術で解決できると思い込んでいる。そこに「憂う」のである。そこには人間の英知を超えた「放射能」という敵が待ち伏せていることを過少評価しているからではなかろうか。
ビキニ環礁の放射能除染は未だに完了してはいない。その現実を人類は直視すべきであろう。