広島県では、我が一族の多くは、佐伯郡区周辺に古くから存在していたようである。 また、たたら製鉄の盛んだった地方にも、同じ姓が点在している。 親戚の多くは、備後、安芸両国の旧庄屋との婚姻関係が多いい。 そんな事から想像されることは、諏訪大社の「鹿(か)食(じき)免(めん)」と言うお札を取り扱っていたのではと思われる。 諏訪大社の近親者の一族では無かろうか。 そんな事を思いながら、墓参を済ませた。 親戚の墓碑の中には、昭和二十年八月の日付の有る物がかなりある。 母の弟は、九日に亡くなっている。 勿論原爆による死である。 三月に入隊し、射撃訓練中、撃鉄が暴発、右親指を無くした為、除隊となった。 元々大工だったので、建物租界に動員され、市内天満町で被爆。 全身やけどで、一度は私の家まで避難してきたが、私の母が、荷物を取りに家の中に入った間に、多くの被害者と共に、草津国民学校へ避難していた。 母がいくら探しても、被爆者の中から見分ける事が出来なかったが、翌日到着した彼の母親は、足の裏を見ただけで探し当てたそうである。 そんな逸話を思い出しながら、線香を手向けた。 二百ばかりある墓石を見て回ったが、昭和二十年八月以降二か月くらいの日付の墓碑が多く見受けられた。 これらの多くは十代の年齢で亡くなっており、おそらく学徒動員先の工場や、建物疎開作業中に、被爆されたものと思われた。 中には、母親二十二歳、子供一歳と言う墓碑もあり、涙が浮かんで来た。 明後日は、妻の実家の初盆へでかける。 ここにも八月六日の墓碑の墓が有る。 妻の叔父の物だ。 広島で憲兵隊員だった叔父は爆心地から400mの所で被爆、憲兵隊事務所二階で亡くなっていたようだ。 軍刀が身元確認が出来たただ一つの物だったそうである。
「南無阿弥陀仏」 「合掌」