美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

マネの水平線-バルベー・ドールヴィイの評言

2021-11-01 17:22:00 | 西洋美術

 三浦篤氏の『移り棲む美術』(2021)の巻頭カラー図版の最初にマネの「キアサージ号とアラバマ号の戦い」が掲載されている。それはこの作品が著者によって重要な作品と考えられているからであろう。

 この作品には画面上方にマネの「高い水平線」が見られる。それはとりもなおさず、ジャポニスムの重要な影響によるものであることを、氏はあらためて論証しようとしたのであろう。

 そこには、マネと同時代の風刺画家たちや文学者たちの評言がいくつか引用されている。

 もちろん、俯瞰的な視点による「高い水平線」は、西洋美術においても皆無ではなく、ブリューゲルなどの作品も直ぐに思い当たる。が、19世紀後半、特に1860年代以降のフランス美術におけるそれは、ジャポニスムの影響とされることが多いのである。

 モネの1860年代の作品にも高い水平線が見られることがある。だが、彼の海景画における高い水平線は、1880年代の作品において最も顕著になるので、1864年作のマネのこの作品における高い水平線が、早期の例としてきわめて重要であることは否定できない。

 さて、マネのこの作品を論じるにあたっては、1872年のサロン展示(この作品の3度目の展示)の際の辛辣な戯画や、バルベー・ドールヴィイ、ジュール・クラルティ、1876年のマラルメの評言などが引用されるのがもとより常のようである。

 例えば、A.C.Hansonの"Manet & the Modern Tradition,"(1977)においても、こういった面々の評が見られるし、ほかの解説本などでも然りだ。 (ハンソンの場合は、G.H.ハミルトンのマネに関する著書 Manet and his Criticsからの引用に多くを負っているようだ。)

 ハンソンによれば、この作品は、1872年のサロン展示の際、大方は好意的な評だった。が、もちろん待ち構えていた風刺家や戯画の恰好な対象ともなっている。

 Stop,Cham,Leroy,Bertallらが、戯画などでこの作品を皮肉った側だ。だが、Barbey d'Aurevillyはこう言ったのである。

 「マネほど才気走らない人なら、絵を見るひとたちの関心を戦闘そのものに向けさせるため、相争う軍艦を画面前景に持ってきたことだろう。…(だが)マネはそれらを水平線上にまで押しやった。彼はそれらを恥ずかしげに縮小して遠方に遠ざけた。が、あらゆる方向にうねる海が、絵の額縁近くまで押し広げられた海が、それのみが戦闘を語って余りある。いや、戦闘よりもすごい。海の力動感により、大波のうねりにより、深海から巻きおこるとてつもない波によって、諸君には戦闘が分かるのだ。」

 マネはこの「歴史画」においても、自分の最も描きたいものを描いたのであり、自分の表現したい方法で表現したのである。バルベー・ドールヴィイはそう言いたかったのではなかろうか。

 後にユリウス・マイヤー=グレーフェも、マネのこの作品に関連して、「バルベー・ドールヴィイはマネの観かたの偉大さを理解して賛嘆していた」と述べている。バルベー・ドールヴィイはマネに辛辣な矢を放ったのではない。

 かくして「キアサージ号とアラバマ号の戦い」は、当代の事件を描いた「歴史画」でもあるが、もちろんマネらしい「海景画」ともなった。

 そして、マネがここで試みた高い水平線と青緑の波立つ海面は、のちに「ロシュフォールの逃亡」(チューリッヒ・クンストハウス)においては、素晴らしい心理的効果をもたらすことになるのである。


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マネの水平線 - 三浦篤著『移り棲む美術』を読む

2021-08-20 21:06:00 | 西洋美術
 ちょっと変わったこの本のタイトルは、三浦篤氏がこれまで発表してきた多数の学術論文に通底していたテーマ、あるいはそこに潜んでいたモティーフを象徴的に縮約しているのかもしれない。

 

それぞれの論文は、1冊の本に纏めるにあたり、大幅に書き改められたという。おそらくこのタイトルは、<日仏美術の往還>という大きな問題に可能な限り整合性と一貫性を持たせるべく、考えられたものなのであろう。

それがどのくらい理解可能なものとなるか、それはこの本を読む人の美術史的関心と、その人の問題意識によって、多方面から判断されるものとなるだろう。

 

極東にいて西洋美術史を研究することの困難さは、おそらく多くの日本人研究者が心の片隅に抱いているものではなかろうか。

文献資料の入手のほか、欧米の研究者のように様々な美術館に行って、自分のテーマに関連のある多くの作品を具に検証できないというもどかしさ、これらは容易に想像できる。

日本の学部学生や大学院生などは、研究テーマに関連する展覧会があるからといって、おいそれとは見に行くことはできない。海外においてはおろか、今や国内各地の大都市で多数開催される展覧会においてもそうだろう。多くの場合、経済的な事情がそれを妨げるに違いないし、今日のようなコロナ禍の世界にあっては更に如何ともしがたい。

いきおい実作を見ないまま論文に手を染める後ろめたさや無念さ、それに極東で西洋美術史を研究しているというある種の気恥ずかしさのようなものがあるのは私にもわかる。

 

それでも西洋美術の文献資料がなかなか手に入らないという事情はこの30年ほどでだいぶ解消されてきたし、翻訳文献も格段に増えた。

国内外における印象派研究自体も、オルセー美術館が生まれたころからは、半世紀前とは比較にならないほどに進捗した。

研究文献や優れた印刷の画集、展覧会カタログ、必要な文献を揃えて、目を通すだけでも大変なほどであり、今や「気恥ずかしさ」などと言ったら、かえって悠長だと思われて笑われるかもしれない。

 

だが、半世紀前の印象派研究は、大学での学術研究の対象としては時代が新しすぎるのではないかと思われる風潮もあったし、文献自体も非常に乏しかった。

何しろ、マネとドガ 、それにセザンヌのカタログ・レゾネはかろうじてあったが、モネとルノワールのそれはなく、リウォルドの基本文献とそのビブリオグラフィーに挙げられている手に入る僅かな文献、それにあまり当てにならない自分の直観だけを頼って、スキラ版や国内出版の画集などを眺めながら卒論を書く時代だった。

 

欧米の美術ではやはり古代ギリシャから中世、ルネサンス、バロック美術を経て、せいぜい19世紀前半辺りまでの美術を扱うのがまっとうな研究であり、正統だという強迫観念のようなものがあって、今もなお、そのように感じている西洋美術史の研究者も少なくないかもしれない。

 

だが、クリーヴランド美術館でジャポニスムの展覧会が開かれた1970年代半ばになると、日本における印象派及びそれ以降の美術、芸術分野の研究に<ジャポニスム>というかなり大きな、未発掘で、日本人の西洋美術の研究者にも、かなり魅力的な分野があったのだということが気付かされ、自覚されるようになってきた。

もちろん、それ以前にも極めて少ない文献資料の中で、作品図版の直観的な比較対照などから実に興味深く、示唆に富む指摘をした小林太市郎氏のような存在があったことも決して忘れることはできない。

 

三浦篤氏による『移り棲む美術』という著書は、おそらく、こうした日本人による19世紀後半以降の西洋近代美術の研究が、ある意味で辿るべくして辿った、最も新しい、一つの優れた研究成果を示しているものと言えるかもしれない。

「ジャポニスム、コラン、日本近代洋画」というサブタイトルがこの本のテーマを明確に、具体的に語っているし、整然としたその目次を見れば、これから著者が何を語らんとしているかが明瞭に辿れるようになっている。

そして重要なことは、著者が通りいっぺんの月並みな概論でなく、細部においてどのような発見があるかをも具体的に(一つの体系的なテーマを逸脱することなく)私たちに教えてくれることである。もちろん、様々な仮説は、可能な限り文献によっても裏付けられた西洋美術史家の眼で語られている。

 

そうした中で、印象派絵画と浮世絵版画の作品比較や影響関係への関心から、とりわけ私の興味を惹いたのは、マネの水平線に関する言及が見られる第5章<「マネ・印象派のジャポニスム」再考>であった。

 

この本の口絵に《キアサージ号とアラバマ号の戦い》(1864年制作)という一般にはそれほど馴染みではない、マネの俯瞰的な視点による作品が鮮明なカラー図版で掲げられていることから、私はこの本を手に取った。

著者にとってもマネの絵画における水平線の問題が極めて重要な研究課題であることが察せられたからである。

 

というのも、実は私も、モネをはじめとする印象派絵画における水平線の上昇傾向と、それとは対照的な浮世絵風景版画における水平線の下降していく傾向など、美術における東西の相互の影響関係を考えていたとき、マネの絵画にも俯瞰的な「高い水平線」を持つ作品があることに当然気づいていたし、大いに注目していたからである。

 

このようなわけで、三浦氏が、マネの絵画における「高い水平線」について、実際どのように言及するのかは、たいへん興味のある問題であった。

 

氏は、マネにおける画面上の高い水平線が、1860年代に見られる点を最も強調する。

   その「高い水平線」の革新性について、同時代の批評家や芸術家がどのように驚き、(批判的に、もしくは好意的に)反応したかを紹介することで、著者は、この作品にかかわるマネのジャポニスムの文献的証拠としてもそれらを提示するのである。かくしてマネが1860年代半ばという比較的早い時期に、一つの重要な革新に達したことを氏は最も語りたかったのであろう。

 

「マネ氏は二隻の軍艦を水平線上に遠ざけた。その距離によって軍艦を縮小するという<凝った工夫>をしたのだが、しかし彼が膨張させる海、拡張して絵の額縁まで連れていく海は(中略)、戦闘よりも恐ろしい。」(ジュール・バルべー・ドールヴィイ)

 

これは当時の批評的言辞だ。が、「膨張する海」の描写の迫真性、あるいはその「恐ろしさ」は一面でマネのこの作品の本質を捉えていた。

と同時にその効果のため主要モティーフを「(高い)水平線上に遠ざけた」構図上の凝った奇異さにこの批評は注目していたのである。

そして、その奇異な「遠近法が日本的なやり方」であると、クラルティなどの言葉を引用しながら三浦氏は記述し、論を繋いでいく。

 

「遠近法が日本的なやり方でいささか扱われすぎている。」(ジュール・クラルティ)

 

その上で著者は、水平線が「額縁の高さまで上がっている」とマラルメの言うマネの海景画(訳文からすると複数らしい)とは、キアサージ号とアラバマ号の戦闘を描いたマネの作品に他ならないと述べるのである。

 

「マネの海景画、地平の水が、それを中断する唯一のものである額縁の高さまで上がっている、あれらの絵を見るなら…」(マラルメ)

 

三浦氏は、マネの「高い水平線」は、「ホイッスラーが所蔵する広重の《六十余州名所図絵》」を彼が見ていたからではないかと考えており、1860年代半ばという他の印象派の画家よりも早い時点で、その革新的業績に到達したことをどこまでも主張する。

ホイッスラーが広重のその作品を所蔵していたことは、《紫と金の奇想曲-金屏風》1864年制作)の画中画から推定しているようであるが、ともかく、こうしてマネは、モネの1880年代の作品に多く見られるようになる「高い水平線」よりももっと早くから日本版画の一つの特質を自分の作品に取り入れていた。そのことを三浦氏は、論証しようとしたのである。

 

しかしながら、ここには言及されていないが、印象派の海景画における俯瞰的な視点に伴う「高い水平線」の問題については、実はモネの60年代の作品にも浮世絵風景版画との関連が想定される具体的な作品がまったくないわけではない。

 

例えばヒルステッド美術館の≪出港する漁船≫は、60年代モネの俯瞰的な視点による海景画であり、水平線の位置も他の60年代のモネの海景画よりも明らかに高い。さらに日本美術の影響を想起させるフラットな色面構成が目立つ作品で、しかも地誌的特質が乏しく、アトリエで仕上げられたものである。

 

だが、モネのこの作品は、マネの上述の作品より先に制作されたかと言うと、そうではない。むしろ、モネのこの作品は、日本版画の他に、まさにマネの≪キアサージ号とアラバマ号の戦い≫から、あるいは具体的に刺激されて描かれたのかもしれない。実際、60年代のモネの作品には、マネのフラットな筆法を研究している形跡が他にも認められるからである。

こうしたモネの海景画への影響という点からも、マネのこの作品の先駆性、または重要性は疑いようもない。

 

ところで、三浦氏は、ブラックモンなどの極めて早い時期(1856年時点での『北斎漫画』の発見については議論がある)のジャポニスムについては、かなり慎重な見方をとっており、あくまでマネ芸術におけるジャポニスムにこそ高い意義を与えている。

ブラックモンのジャポニスムは、早期においては、全くの透き写しであったのだから、影響の次元としては確かに高いものとは言えないだろうが。

 

モネのジャポニスムについて三浦氏は、マルモッタン美術館にある有名な《印象、日の出》や、オルセー美術館に収蔵された《かささぎ》の雪景色に「水墨のジャポニスム」の影響、いや「影響・受容」という言葉に問題があるなら、そこから学び取った「選択・摂取」の可能性について、慎重に、かつ大胆にも言及するのである。

 

「あの《印象、日の出》にこそ日本美術を咀嚼した痕跡を見ることはできないか」。(146頁)

 

小ぶりで習作的、もしくは実験的な作品にも見える≪印象、日の出≫に「水墨のジャポニスム」が認められるかどうかは別にして、もし、モネのこの有名な作品に日本美術の影響が認められるとするなら、私には、まさにモネの先に挙げたヒルステッド美術館の≪出港する漁船≫こそ、その作品に繋がる重要作品に思えるのである。

 

ここでマネの水平線の問題から離れるが、ドガのジャポニスムについては、清長の「女湯」(ボストン美術館)における「覗き窓」に「三助」の顔が見えることに触れている。「鍵穴からモデルを覗き見して描いたかのような、ドガのまなざしとも呼応するのではなかろうか」。だが、ドガの辛辣なレアリスムは、よく言われるような「鍵穴」や覗き窓の美学というよりも、私には、完全に反アカデミックな実証的、自然主義な精神をそこに感じさせるものだ。

 

セザンヌの作品におけるジャポニスムについては、「浮世絵版画との関係を物語る手掛かりがほとんどない」と、やや否定的であり、かなり慎重である。(154頁)

これという文献的資料が殆ど見出せないからなのだろう。

 

北斎ばかりでなく、むしろ広重の作品が、モネやピサロなどの作品に彼らの「印象主義」を確信させたという著者の指摘は、ピサロの有名な手紙の一節からも知られるように、おそらくその通りだろう。

 

さて、三浦氏は、印象派と同時代人のアルマン・シルヴェストルの1870年代前半における言葉を引用して、モネの筆触分割を「日本のイマージュ(浮世絵版画のこと)から借用した可能性があると述べた」(136頁)と紹介している。

かなり慎重な言い回しで氏はこれを語っているのだが、印象主義の最も重要な技法である筆触分割まで日本版画から学びえたものかどうか、これに言及するのはなかなか難しい問題である。

筆触分割の技法は、1860年代末にモネとルノワールが共に制作したアルジャントゥイユにおいて光と水が戯れる水辺の描写から自発的に生み出されたというのがこれまでの通説である。

とはいえ、彼らが日常見ていた西洋絵画にはなかったとされる非常に明るい色彩の最初の啓示が、主に日本版画によって印象派の画家たちにもたらされたことは、テオドール・デュレなどが述べている通りに違いない。

 

 

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業平とマネ、藤の花とスミレの花(2020-4-27のTwitterより)

2021-05-15 14:02:00 | 西洋美術
ぬれつつぞしひて折つる年のうちに春はいく日(か)もあらじと思へば

長谷川櫂氏の「四季」解説によると「藤の花と書いていないのは、藤の花に添えて贈った歌だからである。言葉が足りないのは業平の歌の特長(ママ)」。(今日の読売新聞より)

ここでマネが描いたベルト・モリゾのスミレの花をイメージ対比。
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刑事コロンボとドガ の絵

2020-11-30 22:14:00 | 西洋美術
一昔前から人気のあるTVドラマ刑事コロンボで、評価が高い作品に邦訳「二枚のドガ の絵」(原題は"Suitable for Framing"1971)がある。

このドラマの中に出てくる上流階級に属する美術批評家が犯人なのだが、この「2枚のドガの絵」とは、実際には存在しないドガ の作品ではなく、一般にはあまり知られていないが、現実に存在する作品だ。

それらの作品は、ドラマでは、複製画が使われているのだろう。
その2点のドガ の作品とは、今日、オルセー美術館ある「バレーの舞台稽古」と称されるドガの初期ダンス作品に重要な関連がある2点の素描作品である。

オルセー美術館にある作品の左端部に背中を見せているダンサーと、奇妙に顔だけ見せているダンサーの隣で左手を挙げているダンサーがいるが、彼女たちの素描が、TVドラマ、刑事コロンボの中に出てくるドガの「二枚の絵」だ。

オルセー美術館にあるドガ の作品に関連する2点の素描作品が、TVドラマの中で重要なテーマに絡んでいるのが、ちょっと意外で、面白いが、美術コレクターの叔父を殺した犯人が、ちょっと屈折した有能な美術批評家だから、それらが価値あるものと知っていたのは不自然ではないのだろう。

なお、これとの類似作品はメトロポリタン美術館にもあるが、「二枚のドガの絵 」との関連性は、オルセー美術館の作品との方が分かり易いだろう。

また、2点のドガ の素描のうち1点は、有名なオークション会社クリスティーズで扱われていたようだ。現在もそうかどうかは分からないが、その評価額もコロンボ・ファンには参考になろう。
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マネの「白菊の図」(茨城県近代美術館蔵)〜心あてに折らばや折らむ

2020-11-25 11:38:00 | 西洋美術



「心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花」(凡河内躬恒)

ピーター・J・マクミランの今日2020-11-25の朝日新聞記事を読んで、茨城県近代美術館にあるマネの「白菊の図」(上図)に思いを重ねた。
今の時期、散歩すると、民家のあちこちに白菊が目立つ。

先の和歌について、マクミラン氏は言う。
「撰者である定家がいかに白という色を好んでいたのかが窺える。特に白いものと白いものを重ねる例には、今回の歌の菊と霜のほか…」

しかし様々な白と白の取り合わせを好むのは何も定家だけではなかろう。

P.ヴァレリーなどにより黒の魅力が強調される画家マネだが、彼の白の扱いもなかなか魅力的だ。

白菊の図にも微妙に白と白とが重ねられたり、小さな画面の中で複数の白が互いに響き合っている。

それは、あの一本のアスパラガスを描いた時もそうだった。

それと、今、思い出したが、マネが描いた、洒落た白いズボンをはいた「ブラン氏の肖像」(国立西洋美術館蔵)。

マネの作品における黒の魅力は、スペイン美術の影響があるかも知れないが、彼の絵画における白の魅力が、ひょっとすると日本美術から来ているとすれば、ちょっと面白い。


※画像は、アーティゾン美術館における「琳派と印象派」展の「美術手帖」記事より引用。
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