美術の学芸ノート

中村彝などを中心に近代日本美術、印象派などの西洋美術の他、独言やメモなど。

谷崎賞 絲山氏、長嶋氏

2016-08-23 19:58:41 | 個人的なメモ
第52回谷崎潤一郎賞は絲山秋子さんの「薄情」と長嶋有さんの「三の隣は五号室」。
前者は選考会で都会でも田舎でもない土地の感じをリアルに伝え、文章が格段にうまいと褒められた作品。哲学的な警句や理科的な比喩も効いていると。舞台は群馬県で実家暮らしをする男の物語。
後者は表現の形として実験的で新しいと評価された。東京近郊の木造賃貸アパート、同じ部屋に住んだ歴代住民の年代記。
以上、今日の新聞から
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『平気でうそをつく人たち』を読む(5) 私のメモ

2015-09-09 14:26:10 | 個人的なメモ
17世紀の後半、ガリレオ事件が科学と宗教いずれにとっても有害なものだとされて以来、科学と宗教は、互いにかかわりを持たないという不文律の社会契約を結んできた。宗教は、自然界は科学の領域であることを認め、科学は精神的なもの、価値観とかかわりあうものから身を引くことに同意したのだ。p52

悪の問題は宗教的思索家が管理すべきものとされた。p52

フロムの言う屍姦症的性格の人間とは、他人を支配したいという人間の欲望、他人を支配可能なものにし、その人間の他者依存性を助長し、自分自身で考える能力を弱め、その人間の独自性および独創性を減じ、その人間を制御可能な状態に抑え込んでおきたいという欲望をもつ人間のことである。p56

このタイプの人間は、生の姿の多様性と個人のユニーク性を尊重し、これを育成する人間のタイプとは反対。p56

悪の心理学は治療のための心理学でなければならない。p57

真実に対する愛のみならず、生命に対する愛、温かさと光と笑い、自発性と楽しさ、奉仕と人間に対する心遣い…p58

自分たちの学んできた教訓を神話の中に取り入れてきた。神話の実体はそうした教訓の膨大な貯蔵庫であり、今もその中身を増やしつつある。p58

J.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』のゴラムの性格。p58

私の経験によれば真に邪悪な人間はごくありふれた人間であり、通常は表面的に観察する限り普通の人間のように見えるものである。p59

自分の親しくしていた人が自殺するようなことがあれば、その最初のショックに続いてわれわれに生じる反応はその自殺した人に自分が何か悪いことをしたのではないかと不安になることである。p82

人間というものは、互いに相手に対して何らかの感情を抱くものである。心理療法家が患者に対して抱く感情は「反対転移」と呼ばれている。p89

彼は自分に生じた「反対転移」が適切なものかどうか見きわめなければならない。p89

健全な人間が邪悪な人間との関係において経験することが多い感情が嫌悪感である。p90

この嫌悪感はほぼ即時に生じるものである。p90

この種のネガティーブな反応はどちらかと言えば心理療法家の自己像を脅かすものとなる。p91

邪悪性を精神病の一形態として規定できないか…これを科学的研究の対象にすべきではないかp92

   + + + +

以上で標記の本からのメモを終える。
この本の筆者は精神科医、心理療法カウンセラーでクリスチャン。(43歳の時、無教派の洗礼を受けている。p6)
自分の療法がしばしば効果を上げなかったかもしれないと、本の中で時折語っていることも印象に残った。

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「平気でうそをつく人たち」を読む(4) 私のメモ

2015-09-08 11:47:19 | 個人的なメモ


(以下のメモは、標記(2)と(3)と同様、必ずしも訳文通りではない。省略的になっている部分もある。)

あらゆる動物が殺しを行う。これは必ずしも食物を得るためでもないし、自分の身を守るためでもない。…猫は十分な餌を与えられているにもかかわらず、噛み裂かれたシマリスの死骸を家に持ち込んでくる…これは狩りの楽しみのための殺しである。しかし人間の行う殺しには他の動物にはない独特なものがある。人間の行う殺しは本能によるものではない。p300

本能ではなく学習や経験によって習得された個々の人間の選択によって自由に行動するのが人間である。死すらいとわない自由意志によって行動するのが人間である。p301

悪とは人間の自由意思に必然的に伴う共存物である。選択する力が備わっているからこそ善または悪を選択する自由を持っているのである。p301

多くの動物は自分たちのテリトリーを守るため殺しを行うことがあるが、自分が見たこともないはるか遠くの土地の利益を守るために大量殺戮を命じるなどということをするのは人間だけである。p301

ナショナリズムは悪性の国家ナルシシズムになっていることが多い。p302

われわれは知らずに自分の子供に国家ナルシシズムを植え付けていることが多い。p302

命を危険にさらして出かけていく男たちの95%は、あの戦争がどういう戦争だったかについて、いささかの知識ももちあわせていなかったのである。

知的怠惰と病的ナルシシズムが集団の悪を招くp309

     * * * * * *

「神の加護がなかったのなら自分もそうなっていただろう」という内省こそ他人の悪を判断する時に常に忘れてはならないものである。p314

科学的事実とは単に一部の科学者たちが今現在信じていることに過ぎない。専門領域で研究をしている科学者たちの多数の判断でもっとも真理に近いとされているものに過ぎない。p316

あくまでも自分自身の個人的リーダーシップを放棄してはならない。少なくとも善悪の問題については。p317

邪悪な人間は自分の邪悪性を他人に投影する性癖がある。p320

現代科学は大企業や政府に複雑に結びついており、もはや<純粋>科学などというものは存在しなくなっている。p322

もはや科学は価値観の問題を無視することはできないし、無視すべきでもない。p322






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「平気でうそをつく人たち」を読む(3)私のメモ

2015-09-07 09:27:01 | 個人的なメモ
集団の行動は、個人の行動に比べて、原始的かつ未成熟なレベルにある。p262

なぜなのか。その一つの答えは「専門化」という問題にある。p263

集団の中の個人の役割が専門化している時には、常に個人の道徳的責任が集団の他の部分に転嫁される可能性があり、また転嫁されがちである。…集団全体の良心が分散、希釈化され、それが存在しないも同然となる。p264

人間という有機体組織は、長期のストレスに反応して退行する傾向がある。p268

退行の他に、「防衛」というメカニズムもある。これは「精神的まひ」と呼ぶ人もいる。p268

自分の苦しみに対して無感覚になれば、他人の苦しみに対しても無感覚になれる。侮辱的な扱いを受け続けていれば自分自身の尊厳に対する感覚を失うだけでなく、他人に対する尊厳の感覚も失う。切り裂かれた死体を見ることが気にならなくなれば、自分で死体を切り刻むことも気にならなくなる。p269

人間はストレスを受けている時の方が、快適に過ごしている時よりも悪に走りやすい。p270

真の意味での善良な人とは、ストレス下にあっても、自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのできない人のことである。p271

人間の偉大さを計る尺度の一つは苦しみに耐える能力である。p271

軍隊というものは、その使命の性格からして、集団内の個人の自然発生的退行依存を意図的に助長しこれを育てている。p273

集団ナルシシズム、集団のプライドを高める方法 外敵を作る p274

邪悪な個人は自分の欠陥に光を当てるすべてのものや人間を非難し抹殺することによって、内省や罪の意識を逃れようとする。集団の場合も同じ。p275

専門家集団というものは、偶然によって生まれたのではなく、自己選択と集団選択の結果生まれた。p277

精神科医の会議に出席して、服装、言葉遣い、動作、独特の理屈っぽさを観察すれば彼らがまさしく特殊な種類の人間だという結論に達するものと思う。p277

徴兵されるよりも志願して軍に入る方を選んでいた…p278

志願したものには、即時転任、即時賜暇、特別賞与が保証されていたp279

われわれの社会がそうした役割を果たすための訓練を彼らにほどこし、それを実行するための武器を与えたのである。p281

志願兵だけがベトナムに送られていた頃は、アメリカの大衆はまだ目が覚めていなかったのも当然であった。p283

専門家集団を作るときは「自分の左手がしていることを右手が知らない」という状態になる危険性は常にある。p284

私が提案するのは多目的国家奉仕隊である。p292


つまりうそをつくということが、悪の根源であり、悪の発現だからである。われわれが邪悪な人に気づくのはひとつには彼らのつく嘘によってである。明らかににジョンソン大統領は自分がベトナムで行おうとしていることを国民が完全に知り、理解することを望んではいなかった。…なぜ国民が目を覚ますのが遅かったのか。…ここでもまた怠惰とナルシシズムに直面する。p298

邪悪性とは殺しに関係するものだ…つまりevilはliveに対立するものである。p300
 








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『平気でうそをつく人たち』を読む(2) 私のメモ

2015-08-31 11:04:12 | 個人的なメモ
(筆者が)スケープゴーティングと呼んでいるものは「罪の転嫁」のこと。これは精神医学者が「投影」と呼んでいるメカニズムで生じる。p98

邪悪な人たちの欠陥は良心の欠如ではなく、ある種のナルシシズムである。p102

エーリッヒ・フロムが「悪性のナルシシズム」と呼んでいる病的ナルシシズムである。p103

精神的に健全な大人であれば、それが神であれ、真理であれ、愛であれ、その他の理想であれ、自分より高いものに何らかの形で屈服するものである。p103

われわれは自由を選ぶことはできない。神と善に従うか、自分の意志を超える何ものにも服従を拒否するかである。この服従の拒否こそが人間を悪に隷属させるものである。p107

   * * *

生きていくということは最良の条件においても困難かつ複雑なものである。p110

邪悪性の最も典型的な犠牲者となるのが子供である。p146

邪悪性とは自身の自我の統合性を防衛し保持するために、他人の精神的成長を破壊する力をふるうことである。p167

彼らはその見せかけが破れ、世間や自分自身に自分がさらけ出されるのを恐れているのである。p174

他人の自我の境界をも明確に認識することが精神的健全性の特性である。p191

   * * * *

こどもが生後2年目から3年目に入ると、次第に母親はこどもに何かを期待するようになる。例えば排便のしつけなどがそれである。…
こどもは「いいこと」と「悪いこと」という言葉を覚えるようになる。いい子でいれば、またいい子でいるときだけ、いつでも完全に受け入れられるということを学ぶようになる。…愛されるためには、自分の責任において、愛されるような人間にならなければならない。pp229‐230

自分を現実に従わせることができない精神障害を「自閉症autism」と呼ぶ。p231

自閉症の人は現実の問題に無頓着になる。自分だけの世界に生きておりその世界で…p232

私が彼女(患者)から受けていた愛は決まって私の現実を無視したものである。p232

自閉症の究極の姿がナルシシズムである。ナルシシストのあるものは、マルティン・ブーバーが「我‐我関係」と呼んでいるものだけである。シャーリンが「私は先生を愛している」と信じていたことに疑いないが、しかし彼女の「愛」はすべて彼女の頭の中だけにあるものである。客観的現実としては存在していないものである。p236

私をはじめ他人が彼女との関係において経験していることは、彼女が行く先々に決まって残していくいらいらさせられる混乱と困惑だけである。p236

私は邪悪な人たちの方が普通の人よりも政治的な力を得る可能性が高いのではないかと疑っている。p255
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