美術の学芸ノート

中村彝、小川芋銭などの美術を中心に近代の日本美術、印象派などの西洋美術。美術の真贋問題。広く呟きやメモなどを記します。

中村彝の洲崎義郎宛書簡、肖像画の本質

2024-05-28 12:05:53 | 中村彝

 中村彝の洲崎義郎宛書簡、新潟県立近代美術館の『中村彝・洲崎義郎宛書簡』(1997)で大正9年9月20日の書簡ーこのブログ記事では同年2月20日ではないかと前回に提示ーに、彝が描いた洲崎義郎の肖像画について、曽宮一念が「この肖像画は…昨日僕が見た洲崎さんとは少しも似て居ない様な気がする」と率直に批判したことまで前回の記事で書いた。

 この曽宮の批評については、これまで様々な解説書の類で取り上げられることはあまりなかったように思う。それは、なぜか。
 それは、曽宮の批評とそれに対する彝の反応がやや混み入っており、この作品への評価や解説を単純化できず、作品の質をうまく説明できなくなるからではないか。

 洲崎義郎を描いたこの肖像画に、曽宮は「あの寂しい女性的な優しさがこの顔には見られない」と遠慮なく彝に疑問をぶつけてみた。
 顔が似ているとか似ていないとか、これは一見絵を描かない素人の批評のように見えるが、肖像画の本質(肖似性)を考える上でこれは必ずしもそうではないのである。
 実際、それに対して彝は曽宮の言葉を否定しなかった。自分もその曽宮の言葉を聞いて瞬時に「涙の滲み」で眼が痛むのを感じた。

 「僕も亦その時、昨日見た君(洲崎)の眼を思い出して居たのです。そして…その幽欝と孤独の近因がどこにあったかを探し求めながら言い知れぬ悲しみに襲われて居たのでした。それで僕は(曽宮に)言いました」と述べ、彝の考える肖像画についてこう語る。(※「幽欝」は手紙の原文のまま)
 「肖像(画)は描く人の鏡のようなもの」で画家の心がモデルの心に投影して「それが又画面に写される」。「つまり実在が(画家の)心に色づけられる。なぜなら人の心は常にその接するものに従ってその色んな層を表すのだからあの人は結局かくかくの人であると限定することは出来ない。」
 しかし本当に偉大な作家は、「こちらの心を相手に投影する前に先ずその人の運命と性格とを深く洞察してそれに無限の同情と、敬畏とを持つものではなくてはなるまい」と。(※敬畏は手紙の原文のまま)

 そして彝はついに告白する。
 自分は以前から君の顔に「消す事の出来ない一種の悲しみがある」のを気にしていた。が、「描き出すや否や…君の顔に『かたく自己を信じ人間の《性と望み》とを信ずる血気な青年の生き生きした心』の躍る」のを見てしまった。実際それが彝にとってその時、彼に映じた洲崎の姿だったからだろう。
 すなわち彝は、洲崎の心に悲しみや孤独感があることを気にしながらも、また「真の人間的な接触を許されない」彼の運命を「絶えず考えていた」にもかかわらず、眼前の洲崎の「愛焔が雄々しく燃えさかる勢い」の中で、「丸で牡牛の様な君」を描いてしまったと言うのだ。

 「真の人間的な接触を許されない」洲崎の運命とは何なのか、この書簡からは定かではない。が、いずれにせよ彝は洲崎の肖像を、悲しみが宿る人間としてではなく、堅固な信念と血気な「牡牛」のような青年としてここで表現しているのだ。しかしそれは決して「真の見方」ではなかったと振り返っている。

 「君の絶えざる悲しみ、君の慈悲の涙、生きながら葬られ勝ちな愛の苦しみは、おそらく君の一生を通して避くべからざる重荷でなければならない。そうでなくて何でこの様に、この間の一寸した君の沈み顔が、この様に僕や曽宮君やの心を打つ筈があろう。…今度君を描く時には、どうかして君のこうした一面を強く、はっきりと描き表し度いと思うのです。」

 「君の絶えざる悲しみ、君の慈悲の涙、生きながら葬られ勝ちな愛の苦しみ」とは、彝自身の心の中を思わせる言葉でもある。ここに彝と洲崎の心が重なり合うのを見る。だが、次にそうした肖像画が描かれる機会は遂に来なかったのである。

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中村彝の洲崎義郎宛書簡、弟子入りした塩井雨江の娘

2024-05-28 11:48:46 | 中村彝

 大正9年9月20日の洲崎義郎宛書簡も1997年の新潟県立近代美術館での展覧会で紹介されたきわめて興味深い書簡である。だが、やはりその与えられた日付は、再検討しなければならない。
 この書簡には塩井雨江(1869‐1913)という「文学士」の名前が出てくる。そして、彼の娘(独身)を彝は「一昨日面白い人が弟子入りを申し込んできました」と書いている。「実は年四十を超え、絵を初めてから既に二十余年にもなろうと言う…迚も奇抜極まる、画狂です…」と紹介している。

 塩井雨江は、『於母影』の訳者・落合直文に師事し、日本女子大などの教授になっており、詩人・文学者として知られている。雨江の妹が、雨江の友人・大町桂月の夫人になった塩井長で、雨江の娘が彝に絵を習いに来た「塩井さん」である。

 さて、この手紙の末尾には確かに二十の日付が書かれているが、なぜそれが大正9年9月の20日になるのであろうか。

 「塩井さん」という名前は、すでに大正9年4月1日や同年5月3日の洲崎宛書簡に出てきている。従って、これら2通の書簡の日付が誤っていない限り、「一昨日」に当たる9月18日に雨江の40歳を過ぎた娘が弟子入りして来たと報告するのはおかしくないか。

 また、この手紙には明日から金平が来ることになっていると書いている。「水戸の女中」は駄目になったので、新聞に「取り敢えず女書生募集の広告を出す事にしました」と。
 そして「女書生募集の広告」に関連した事柄は、大正9年2月25日の手紙にも書かれているのである。

 更に問題の手紙には、「婆ヤは、実婦危篤との報によって急に暇をやる事にしました」とも書かれている。ここに書かれている婆ヤとは1月下旬に彝の所に洲崎が連れて来た土田トウのことと思われ、おそらく彼女は2月20日ころまでには柏崎に帰ったはずである。(※文中の「実婦」は意味不明であるが、「婆ヤ」の旦那となっている人の本妻ということか。)

 こうした事実を辿っていくと、この手紙はおそらく大正9年2月20日に書かれたのではないかと思うのである。
 
 ところで、この書簡の前半には彝が描いた洲崎義郎の肖像画についての曽宮一念の興味深い感想と、彝の考える肖像画論が書かれている。

 「君達が帰ると翌朝早く曽宮君がやって来ました。そして、あの君の肖像画をわざわざ引っ張り出して、何時までも何時までも、しげしげと見守って居ります。…すると突然曽宮君が言うには、『この肖像画は今まではよく洲崎さんに似ている居ると思ったがしかし昨日僕が見た洲崎さんとは少しも似て居ない様な気がする。あああの寂しい女性的な優しさがこの顔には見られない。』それを聞いた僕は『涙の滲み』で眼が痛むのを感じた。」(続く)
 

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