バルセロナ・・・スペイン観光で人気No.1の都市のようです。
・・・12月22日、日本(TOKYO)・・・朝からカタルーニャ自治州で(現地21日)実施された州議会選挙の速報が流れていました。
2か月ほど前、憲法裁判所が住民投票を違法として選挙妨害したが・・・カタルーニャ州が住民投票の結果、得票率は50%以下でしたが
得票の90%が独立を支持し、10月27日、ここバルセロナのあるカタルーニャ州がカタルーニャ共和国として・・・一方的に独立宣言しました。
・・・スペイン政府のラホイ首相、カタルーニャ自治州議会を解散させ、関係者を逮捕、しかし州首相らはベルギーに逃亡・・・
議決したにっくき議会議員の再選挙が、12/21でした。
独立派を押さえ込めるだろうと選挙を実施した結果、ラホイ首相の国民党は大敗、独立支持派が過半数を獲得したニュースでした。
予想された結果のようで、EU諸国はスペインの国内問題とカタルーニャ共和国の独立を承認することは無いようです。
混乱状態が続くでしょうが、再度独立宣言しても効果は無く・・・内戦にはならないので、州の不満は国政を変えることができるでしょうか?
・・・地中海に面し北上すれば、すぐにフランス、・・・モンペリエ、アヴィニヨン、マルセイユにも近く、
この地域は今回の選挙結果のように、世代交代が進んだとはいえ独立運動が続く独自の文化・歴史を持った都市です。
その観光資源の重量な一角を占めるのが、完成が近づいて来たカトリック教の教会・サグラダ・ファミリアです。
El Temple Expiatori de la Sagrada Família、聖家族贖罪教会と訳されるようですが・・・
贖罪(ショクザイ)?広辞苑では、①体刑に服する代わりに、財物を差し出して罪過を許されること。
⓶自らではあがなうことのできない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが十字架の死によってあがない、神と人との和解を果たしたとする。
和解。赦し。とあります。
サグラダ・ファミリアは、どのような経過をたどって建設が始まったのでしょうか・・・
・・・まずはこの地、バルセロナを考えると・・・アテネに至る地中海を支配していた全盛期がありました、確か アラゴン連合王国の時代 12世紀から14世紀でしょう。
15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国で統一王朝となり、スペインの首都がマドリードになると、この地バルセロナは衰退が始まります。
・・・サグラダ・ファミリア ガイドブックには、下記のような記述が・・・
スペイン継承戦争(1701~1714年)では、バルセロナの包囲戦が三度も起こり、フェリペ5世が反乱を起こしたバルセロナを処罰、商業地区の半分を取り壊して城塞を建設しました。
その後・・・19世紀に産業革命が起こり、産業が発展すると、この街でも人口が増加して市域の拡張が必要となります、今から約160年ちょっと前
軍事的理由から建物の建築が禁止されていた山裾が開放され、1854年から56年に城塞は都市公園になり城壁が除去され、都市計画で道路が整然と走る現在の形になりました。
現在の鳥瞰図を、グーグルの画像から見てみましょう。
城壁は結構海岸近くまであったことが解ります。
都市計画の新たな区画で、一番安価な土地には果樹園とヤギの楽園があったようです。
・・・聖ヨセフ信仰者協会のボカベージャ会長が、この新たな区画の中央で聖家族に献納する寺院を建立したいと考えていました。
”聖家族?” 集まった寄付金は170,000ペセタ(当時の価値が分からないが)。
しかし、中央部はもちろん条件の良い土地は非常に高価だった。かろうじて都市計画の区画内で一番安価な土地が購入できた。
この土地にボカベージャ会長は、聖家族に捧げる贖罪寺院を貧しい人々のために建立しようと、教区の設計者に依頼します。
上の人物が、ボカベージャ会長、聖堂の地下博物館に展示されています。
”贖罪寺院?” 贖罪(寄付金)で建てるとすると、建築費は?土地代で消えたのでは?、免罪符でも発行したのでしょうか・・・
1882年着工、早速ゴシック様式の地下礼拝堂の建築に取り掛かかります。
しかし、無報酬で仕事を引き受けていた設計者は、ボカベージャ会長と意見が対立し半年で辞職することになります。
ガイドブックの写真を紹介します。
この方が無報酬で引き受けた設計者、ビジャールとそのデッサン、端正なゴシック調の教会です。
設計図を提示し、建設費、工期も関係者に説明されたことでしょう、
対立した理由は分かりませんが・・・贖罪寺院なのにもっと豪華な大聖堂に設計変更を要求したのか、それとも資材費や作業者の工賃未払い?
困った・・・有名な建築家に後任を相談すると、自分の弟子で地元出身のガウディを推薦された、そこで、彼に設計を依頼することになりました。
1883年、アントニー・ガウディ(31歳)が就任します。
・・・この時期、日本では文明開化・鹿鳴館が完成し、官軍出身の貴族が湯水のように国費を散在していたころです。
ガウディは、21歳でバルセロナの建築学校に入学、26歳で卒業しています。
彼は家業の銅細工の血筋でしょうか、学生時代、アール・ヌーヴォ(自然界の動植物の形状に見られるような曲線を多用した、凝ったデザイン?)に共鳴し、
・・・評価の分かれる作品が多かったようです。
まもなくパリ万博に出店した企業のショーケースを製作し、この作品が富豪の繊維会社経営者、エウセビオ・グエルの目にとまり、以後40年近くパトロンとして支援を受けます。
・・・さて、サクラダ・ファミリアの東西の配置を見てみましょう。
碁盤の目状のブロックは、海岸から北西に一直線、区画の右下が東、左上が西(多くは、こちらが入口ファサード側)ですが・・・、
前任者が地下に礼拝堂を着工していた・・・迫害されていたキリスト教徒たちは墓を洞窟や家の地下に隠していた歴史が影響しているのでしょうか、
ガウディは前任者の様式を引き継いで、地下礼拝堂を完成させます。
下の写真は1886年、「聖ヨセフの伝道者」に掲載されたものとガイドブックにあります。
7つの礼拝室があり円形で、中央がカトリック教会の守護聖人聖ヨセフに献納、
ガイドブックから中央祭壇です
さらに聖体、聖母カルメンの礼拝室、聖母マリアの無原罪の御宿りの礼拝室、聖心の礼拝室
(聖家族)・・・聖母崇拝、聖書・福音書に目立った記述は無いが、トゥレントの公会議で相当な拡張を見せ、
聖母の処女性の教義がカトリック教徒に大歓喜をもって受け入れられ、聖母崇拝は19世紀にその絶頂期を迎える。
・・・とガイドブックにも説明されてあるように、聖母はいつのまにかファンタジーの世界へと拡大解釈。
ガウディは宗教には関心が薄かったようですが、教会建設のモチーフは旧約聖書、新約聖書の物語、登場人物です。
名場面の人物描写は重要です、・・・やがて聖母の熱心な崇拝者となり、この地下礼拝堂の聖母の下に埋葬を望みます。
・・・丸天井に穴を開け光と空気が入るように変更し着工から9年後、1891年完成させます。
この間に当然施主?(ボカベージャ会長)にガウディは、完成予想図を説明していることでしょう。
ガイドブックから、ガウディのサグラダ・ファミリアのデッサンです。
前任者の優秀な実務派に対して、このデッサンを見せられたら・・・、
スゴイデスネ!、・・・完成はいつごろになりますか? と聞くのは、多分、芸術に理解の無い者なのでしょう
しかし、説明は求めたでしょうね、あなたが生存中にどの位まで完成できます?
完成まで500年も掛かった大聖堂はいくつもあります。
・・・この地には既に14世紀、海の大聖堂「サンタ・マリア・デル・マル」が有力な商人や船主により建立されていた。
さらに、ラ・セウと呼ばれバルセロナ大司教座が置かれている「サンタ・クレウ・イ・サンタ・エウラリア大聖堂」
があり、長い歴史を持ち、現在の建物は15世紀のゴシック様式で建てられています。
・・・何と、大聖堂が二つも存在していたのです。
聖ヨセフ信仰者協会のボカベージャ会長は、”三つ目の壮大な大聖堂を建てましょう、贖罪で何とかなるでしょう、
あなたと共に、延々と夢を追いかけましょうか・・・” とでも言ったのでしょうか? 何が契約されたのでしょうか?
上の写真、右側のガウディは、1878年26歳で建築学校を卒業したころとありました。
ダンディなガウディは、上等なスーツにシルクハット、馬車に乗ってやってきて、馬車から指示をしていたとあります。
この写真は、・・・はしごで上階に登り・・・視察? いや、はしごの位置が悪く、登り難いでしょう
これは、資材の強度試験をしている、・・・その監督をしている際の写真のようです。
建造物は複雑な意匠です、ガウディは図面で説明、指示をするよりも、実験を繰り返し、模型を作り、模型で指示をするので
新しい試みの構造体を採用するには、長い間実験を繰り返すことが続き、工期は遅れに遅れ、建築現場は混乱したことでしょう。
これは、今日でも聖堂の地下でこのように模型を造ったり、作業の検討中。
・・・さて、教会の全体図は・・・多くの教会のように西にファサード(正面出入口)、後陣(主祭壇)は朝日の当たる東に置きたい、
この教会は、南北にもさらにファサードと考えたようですが、地下礼拝堂の方位が、ガウディの東西構想とはズレが起きていた。
・・・地下礼拝堂の天上(地上部)の位置は敷地の北西側になるが、ここに後陣を建てることにし、ここにも7つの礼拝室を設けています。
後陣の外観が建ち上がり、全体像が見えてきた写真があります。
手前にガウディが乗ってきたのでしょう馬車が見えます、1892頃の写真
後陣は地下礼拝堂と同じく前任者のゴシック様式を引き継ぎ、1893年完成します。
後陣の左右2か所に螺旋階段を造り、地下礼拝堂とつながりました。
将来、後陣の上には超高層のドームが建立され、聖母被昇天がモチーフの回廊の門と一体になって聖母崇拝が完成します。
エル・グレコ ”無原罪の御宿り” ・・・ガウディは聖母崇拝でしたから、完成形はどのようになるのか注目です。
後陣が北西に向いたので、残りの三方向にファサードが計画されます。
南東(後陣の正面)に栄光のファサード、そして朝日が差し込む北東(東側)に生誕のファサード、南西(西側)に受難のファサード
受難の物語より、生誕が人々には好感を持たれるでしょう、生誕のファサード側の建築が進みます。
1904年頃の風景です。
着工から約20年後でも確かに多くのヤギの群れが見えます・・・、大きな塔が何本も、糸杉のように立ち上ってきました。
大きな歯車のウィンチらしきものや、チェーンの滑車、クレーン?などが、のどかな田園に異様な塔を建てています。
・・・ガウディが、生誕のファサードに取り掛かったころ、現在の案と違いかなり質素なデザインだったようです。
ところが(建ち上がって来た後陣を見たのでしょう・・・聖母マリアのような女性が現れたようです)
60,000ドゥーロを寄付する者が現れ、その後さらに、70,000ドゥーロの寄付を受けました。(140,000ドゥーロとの説も)
これらの寄付が無ければ、1883年にバルセロナ司教に任命されたカタラー博士が他の目的に資金を使っていただろう。
この寄付を受けて、状況は一変したようです。
可能な限りの費用を注ぎ込むよう、ボカベージャの娘婿の理事から指示が出されました。
・・・この寄付で生誕の門と1年間に渡り12人の大工で造る石膏の飾り迫縁の型代、計20,000ドゥーロの支払いができたそうです。
この女神の名はイサベル、名前以外は何も残されていないと言われています。
これが生誕のファサード完成図です。
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