後に山田長政と名乗る人物は、1590年尾張で生まれた。
母は夫と死別後、実家の駿府へ戻り、紺屋を営む山田家の跡取りに入った養子と1593年再婚しています。
従って長政は3歳から駿府育ち、10歳で地元徳川家康軍が大軍で豊臣軍を討ち破った話を聞くことになったでしょう。
近くの臨済寺で学問を学び、家業の紺屋に関心は無かったようで、ひそかに町道場に通う少年時代、体格も良く、雄弁で、織田信長の血筋と周囲にほらを吹いていた。
・・・倭寇(ワコウ)という言葉があります。
倭は日本・日本人、寇は賊、外敵の意味、・・・13~16世紀、朝鮮、中国の沿岸を日本の海賊が荒らしたことに対する朝鮮、中国側の呼称。
さて、当時の日本国の国情は、ヨーロッパ人がこの国の文化に感銘を受け国体から食事の作法まで多くの情報を本国に送っています。
ライフ 人間世界史No.20 EARLY JAPAN から引用しましょう。
瀬戸内海や北九州の海賊が朝鮮・中国の沿岸部を荒らしまわり、何も対応できない朝鮮や中国にあいそをつかした沿岸部の一部の人々は日本船の乗組員として働き、・・・密貿易が繁栄します。
結果、西日本の大名にも富が流れ込んできます。
倭寇は、フィリッピン諸島、シャム、スマトラ、マラッカ海峡まで進出し、各地に日本の植民地が建設されていました。
これらの地で平和的に貿易が行われたが、現地の政治闘争にも、攻撃的で武力に勝る日本人が影響力を行使しています。
・・・ところが世は大航海時代に突入、1513年ポルトガルの船が中国に初めて到着します。
小型帆船に手漕ぎの倭寇船団が往来する中に、大砲を積んだポルトガル船が現れ・・・勢力図が変わってきます。
中国人の密貿易者も多くなった時期に・・・中国の船が種子島に漂着し、中国人の中に三人のポルトガル人が乗船していました。
彼らは島民に鉄砲を撃ってきた。1543年のこと。
島の領主、16歳の種子島時尭(トキタカ)がポルトガル人を手厚くもてなし・・・鉄砲2丁を銀2000両(数千万円~1億円)で買い取ります。
ポルトガル人は商人です、日本は金持ちと思ったのでしょう、後に大量の鉄砲を持ち込みますが・・・当てが外れて売れなかった、・・・何故でしょう?
・・・種子島時尭は買い取った鉄砲の1丁は家宝に、もう1丁を分解し構造を学ばせます。
火薬、使い方・・・そしてネジの機構をポルトガル人に学びます。
・・・浜辺の砂鉄を利用して、刀鍛冶が苦労しながら、・・・翌年には国産第一号が完成。
種子島(鉄砲)は、堺(大坂)、国友(滋賀)、根来(和歌山)と生産地が広まり・・・独自の火縄銃が生産されていきます。
10年後には、需要があるので日本各地で製造され、・・・ヨーロッパの保有数を上回る30万丁とも言われます。
1575年の長篠の戦では、織田軍で1000丁以上(これまでは3000丁と言われていましたが)の鉄砲が使われたといわれます。
(火縄銃は1丁約数十万円と刀剣よりかなり安価で、鉄砲隊は短期間の訓練で実戦配備ができた)。
関ケ原の戦いの前には、世界の50%以上の保有数で性能もトップクラス・・・輸出もされています。
・・・関ケ原の戦いの前に、大分の臼杵湾に大きな帆船が漂着しました。
(堺市博物館 リーフデン号復元模型)
アフリカを回り遠洋航海、5艘の船団だったがやっとたどり着いた日本・・・生存者はわずか20数人、
日本に最初にやってきたオランダ船 (当時は神聖ローマ帝国です)「リーフデ号」300トンです。
イエズス会の人々は海賊だ処罰をと進言するが豊後の大名は、紅毛人(コウモウジン)と呼び彼らを歓待した。
この船の水先案内人が、日本に来た最初のイギリス人、ウィリアム・アダムス、もう一人のオランダ人ヤン・ヨーステンの二人を徳川家康が招いた
彼らの情報は、ポルトガル宣教師らの内容と異なりカトリックとプロテスタントの宗教戦争を知ることにもなったのでしょう。
やがてアダムスら二人は家康の外交顧問となり、その後多くのオランダ人がやって来て、九州・平戸を貿易港として使用することが許されます。
・・・さて徳川家康が関ケ原での大戦で大勝し、1603年朝廷より征夷大将軍の命を受け・・・武士のトップになり・・・終戦・平和な世となるのでしょうか?
いやいや、秀吉の息子と豊臣方の象徴大阪城の攻略が悲願であり、思案していました。
一方、石田三成、小西行長ら敗者の残党の中には、他国で一旗揚げようと南方に渡った者も多数いました。
家康は征夷大将軍になると同時に、対外貿易を始めます。
朝鮮との仲を回復し、安南(台南市)、ルソン(フィリピン)と交易を開始し、渡航は許可制として朱印状を授けます。
(史実 山田長政 江碕 惇)によれば、
1604年8月にシャム居住の与右衛門にシャム渡海の朱印状を授けた。
大阪城攻略には大砲が役に立つ、その砲弾には火薬・・・シャム産の火薬(焔硝エンショウ)は良質だった。
・・・長政の駿府にも海外渡船を許された商家が10件弱あった。
大名では、島津忠恒、有馬晴信、加藤清正、亀井玆知、細川忠興、長谷川藤正など。
商人では田辺屋又左衛門、今井宗忠などなど。
家康は長崎の豪商・木屋弥三右衛門に命じ毎年シャムに船を出し、シャムの宮廷にも出入りさせて、鉄砲、硝石(火薬の原料)、鉛などを買い入れさせた。
当時の最先端の世界地図です。日本の国土にも、ヨーロッパから測量船が来てこれだけ調べたということでしょう。・・・伊能忠敬が活躍するのは、まだまだ先のことです。
山陰因幡の領主(亀井)が貿易で利益が上がることを知り、配下の者に長崎で300トンの帆船を建造させます。
懇意な老中より朱印状を手に入れ、京都、堺、大阪で物資を購入、領内の農民・漁夫をかりたてて水夫とし、シャム、カンボジアに乗り込み多大の利益を収めた。
その後数多くの貿易船を各地へ派遣しています、国内での造船が間に合わなくなり、現地での製造も依頼しています。
亀井家に現存している3通の文章のうちに、1606年家康が鉄砲20挺をシャム王に贈り、答礼としてシャム王が鉛千斤(約600kg)を贈った記載があります。
鉛は鉄砲や大筒の砲弾として貴重な輸入品でした。 家康が攻略目標の大阪城・・・大坂冬の陣まで8年でした。
以後1618年までに34艘の船に朱印状を与えている。
・・・さて、山田長政は、大阪に出向き北風が吹く時期に出帆する船をチェックし続けていました。
駿府の商人太田治郎右衛門、滝佐右衛門の仕立てた大宛(タイワン)行きの船、富士丸(400トン、長さ40m、幅12m内部に座敷が三つ、風呂の設備もあったそうです)
が晩秋になり大阪港で積荷が完了し、北風を待っている時・・・水夫姿の長政は出帆直前に潜り込みます。
・・・出帆後、大宛(タイワン)まで連れて行ってと名乗り出て・・・断られると・・・船主にも違法乗船の責任が及ぶと脅します。
しぶしぶ承諾させると・・・操船、水夫仕事も覚えようと積極的に仕事を手伝いながら長崎経由、大宛へ
そして大宛(タイワン)、ここでシャム行の船を待ちました。
・・・長崎から着いた豪商・木屋弥三右衛門の船に交渉し、アユタヤの日本人町に乗り込んでゆく。
長崎からシャムまでは船賃、銀50匁(約150g)・・・米2石(360リットル)≒米285kg、サァ 米換算で 10k≒1万円とすると・・・28万円位
金と日本刀を持ち込んで密航したので、木屋さんには船賃を支払ったのでしょう。
当時(1610年頃)のシャム国は、もちろんアユタヤ王朝の時代です。
王は20歳で即位し現在25歳、オランダ、ポルトガル等との交易に重点を置いていました。
このアユタヤには、日本人町(居住地)が与えられていて、広さは東西250m、南北500m、約3万坪、ここに約2000人が居住していたと推定されるそうです。
・・・100人程度かと想像していたら2000人?
日本人の多くがシャム王の近衛兵をつとめ、戦時には外人部隊として活躍、平時は物資の買い付けや貿易に従事していました。
日本人町の北にオランダ人町、対岸にポルトガル人町、支那人町、マレー人町、コーチ人町があった。
(オランダ ヘーグ文書館 アユタヤ古図 を参考に 当時の様子を想像してみました、河川の幅は広かったようです)
日本人町の頭領はオープラ純広(スミヒロ)、オープラとは武官の位で少将、(上から3番目)、純弘は関ヶ原の戦い後単身因幡の亀井大名の指示で渡ってきていた。
(純弘は、1609年から1612年まで頭領)
アユタヤの都は、チャオプラヤ川に囲まれた(浮かんだような)東西4㎞、南西30㎞の町、デルタ上の土地にいくつか小島があり、河川が縦横に走っていた
(現在よりは湿地帯が多く、河川の護岸も洪水には弱かったでしょう)
長政は木屋の口添えもあり純弘に同居を許され、日本からの物資の積み替え、買い付けを手伝った。
日本からは、日本刀、金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵の道具、絵屏風、銀など
持ち帰る物資は、紗(シャ)、ビロード、毛織物、豹(ヒョウ)、鹿、鮫の皮、鉛、火薬、サンゴ、メノウ、沈香(ジンコウ)、白檀(ビャクダン)、紫檀、黒檀など
しかし、木屋の船は南風が吹く翌年の春から初夏まで船出は出来ず、なお足りない物資の買い付けをしていた。
・・・25歳の王が精神に異常を起こし・・・王位継承問題が勃発・・・、策謀の疑惑で皇太子と貿易長官が処刑されてしまう。
王は間もなく亡くなり、末弟(ソンタム)が新王となった。
この貿易長官は日本人に好意を持ち、便宜をはかってくれていた・・・恩人が処刑され、仇を討てとオープラ(純弘)の号令一下、500人の日本人部隊が隆起した。
新王が寺院に参拝するとの情報で、寺院を包囲し王に三か条の要求を突き付けた。
1・日本人に敵対する高官二人の引き渡し、2.日本人に、居住、商業、貿易の権利を認めること(無許可っだったの?)、3.保証するなら数人の高僧を人質として出せ
分かり易いですネ・・・王は長政と同じく21歳、その場で3か条を承諾した(させられた)
・・・王宮に帰り、王はポルトガル兵に援助を依頼し、王の兵と連合部隊で日本人町を攻撃してきた。
長政はオープラに進言した。ポルトガル兵は大砲を持っています、城壁が無い日本人町は砲撃されたらひとたまりもない。
夜になったら脱出する、・・・1隻ある軍船に半数、残りの部隊は陸上に分かれ、約250km先の南シャムに向かった。
木屋の船でこの湾から川の上流に向かう際に見かけた要塞だった。
ここを本境地として長政は志願して軍船に乗り、水軍を指揮して神出鬼没の戦い振り、
やがて、もともと日本人に好意を持っていた王は、敵対関係を解消したく和解を申し入れた。
オープラは、和解の条件、1.チャオプラヤ河口の水上警備と、出入船の関所の管理権を日本人に委ねることを承知させた。
この河口には中洲があって船が自由に航行できなかったので、関所として関税を徴収するには最適地であった。
・・・ライバル国のポルトガルは約100年も前の1516年に通商許可を得ています。
遅れたオランダ(当時は神聖ローマ帝国)でさえ、1592年に通商許可を得てシャム産のコメを輸出していました。
日本人は・・・関ケ原の戦い後どっと増え、遅れてきた日本人が戦闘的だった面もあるようですが、
日本国の将軍にシャムの使節をたびたび派遣しているが、報告は日本人の教養・文化は他国を著しく抜きん出ているという。
貿易も信頼がおけ、信義に篤く、武勇も抜群と日本人は優遇されたようです。
・・・日本人町も再建され貿易も忙しいが、若い長政は・・・権力者は宮廷、宮廷の王に近づくには、正しくきれいな宮廷語、宮廷用語の研究に努めた。
武闘派の話題は、1212年、純広(頭領:オープラ)が日本に帰り、津田がオープラ(1612~1616年)を引き継ぐと間もなく、シャムとビルマで戦争が起こります。
長政は100人の隊長を任命され、鎧、兜、家宝の大刀を差し、背には旗指物、日の丸の下に「南無八幡大菩薩」・・・そして得意の弁舌をふるう。
日本人部隊は勇猛果敢な戦いでビルマ・ポルトガル連合軍に大勝します。
・・・ソンタム王は、自分の妹をオープラ津田の妻として与えた。(シャム王室の慣習の一つ)
王は津田に先陣の身体の大きい若い隊長は、名を何というか・・・彼に、一代限りの官爵名「オーク・バン」6階級の一番下の位を授けた。
宮中で、山田長政は王の前で任官式を行った。・・・今後姓名では呼ばず、官爵名で呼ばれることになった。
・・・アユタヤは水の都、陸路は無く、日本人町の間でも百位の船を所有していた。
オープラが津田から城井(1616~1620年)に変わるころ長政がかかわり大軍船を建造します。
長政30歳、駿府を出てから10年、1620年10月日本人町の頭領になります。
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