気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

高野山 大門

2015-10-05 | 旅行記

慈尊院から紀の川の南側を下流に向かって走っている。

・・・慈尊院から空海が歩いた山道を歩きたかったが・・・今回は時間が無いので断念。高野山へは高野七口と呼ばれる七本の参詣(サンケイ)の道がありました。

さて、ここ慈尊院からの道は・・・武士も皇族も登ったといわれる・・・表参道です。

雲海の上、標高約850mの高野山の中程に、壇上伽藍(ダンジョウガラン)、根本大塔(コンポンダイトウ)があります。そこから西に進むとほどなく大門(ダイモン)、その先は急な下り坂、

・・・峠を上って下ってを繰り返し、標高約450mの雨引山を下ると山麓に現在の慈尊院があります。

平安時代の816年に、空海が高野山参詣の玄関口に慈尊院を建てられたのは、もう少し北側の河原近くだったそうです。それから700年、戦国時代の1540年、紀の川の大洪水で慈尊院は流失してしまったそうです、しかし弥勒堂は1474年に現在の地に移っていたので助かり、当時を忍ぶことができます。

空海の母親が82歳の高齢でなんと讃岐国(香川県善光寺市)からこの地まで出て来られたが、高野山は空海が七里四方女人結界の聖地と定めていました。母親といえども登れずこの慈尊院にやむなく滞在。(明治5年まで女人禁制)

そこで空海が月に九度もこの地の母親に会いに山を降りてこられたという話から、この辺は「九度山」(九度でなくても、月に何度も)が地名に付けられた。

山道を距離にして約22㎞、当時の人は足腰が強かったでしょうが、それでも片道5~6時間はかかるでしょう。

さて、高野山の根本大塔から大門を経てこの慈尊院までの表参道に、道標(ミチシルベ)として木造の卒塔婆が、・・・当時の長さの単位、1町(チョウ)毎に番号を付けて立てられました。1町は109m、36町で1里です。

慈尊院の南、丹生官省符神社に登る石段(下の写真中央)の途中に180番目の石塔があります。

上の写真の左端に立っているような木造卒塔婆は、時が過ぎると朽ち果ててしまいます、・・・高野山の人気は続いていました・・・そこで鎌倉時代に、高さ約3m、幅33㎝の石塔(五輪卒塔婆形)に替える工事が始まり・・・20年も続き、200基以上(起点から伽藍まで180基、伽藍から奥の院 御陵まで36基)が石塔になりました。

高野山町石道(コウヤサン チョウイシミチ)と慈尊院に看板が掛かっていましたが、この180町石が表参道の起点となります。

参詣者は、この180町目の石塔(卒塔婆)に礼をし、次の179番目を目指しますが、この間隔は絶妙ですね、・・・疲れを感じる前に次の卒塔婆に励まされ・・・元気が出ます。現在鎌倉時代の石塔が約150塔が残っているそうで、信者の信仰への道は1200年も続き、今日も人気がある表参道です。

・・・慈尊院から10分弱で西高野街道(国道480号)が交差する東渋田交差点、左折すると高野23㎞の表示が出てきた。大きなカーブが続く国道を順調に進み

10数分でしょうか、12㎞位走ると九度山から登ってくる370号線と合流します。この付近で標高500m弱、ここから山の尾根を小回りしながら一気に300m登るので小さなカーブが連続します、道幅もそれなりに狭まるので注意してドライブされたし。

合流地点から10分位走ると左が山肌、右に崖、右側の木立の間に看板が見えてきました。左に大きくカーブをする、三差路・・・減速し左斜面の上を確認する、・・・そして、近くの側道に停車し、振り返る。

上の写真で、向こう側から走ってきたのでした、・・・進行方向左手に大門(ダイモン)があります。

・・・着きました。ここが高野山の入口です。

横断歩道の左側、歩道の端が傾斜しています、・・・左の斜面の下から町石道を登ってこられ、ここで平地にたどり着き、目の前に大門が現れるのです。

では町石道と同じく、参道側から大門へと進みましょう。

道路側から見つめていると、ここに道路ができたのは残念に思えます。せめてこの付近100mだけでもトンネルになっていれば、自然と一体となった聖地としての雰囲気が残せたと思うと・・・。

正面に見える大門は何度となく焼失しています。高野山の資料よると・・・この地で、鳥居の形から門になったのが1141年と言われ、1230年五間二階建ての楼門へ、1577年焼失、1640年に再建、1688年焼失、1705年再建・・・1986年に全面解体修理され、白木の表面が昔の丹(ニ,アカ)塗りに戻されました。

高さは25.1mもある大きな楼門です。

正面右端に、案内板があります。

昭和の解体修理が、資料より少し早くから開始されたようです。この位置からは大門の一階部分が見えます。

左右に仁王が配置されています。そして中央の2本の柱に掲げられているのは

 

資料によると、「日々影向文」(ニチニチヨウゴウブン)の後二句が柱聯(チュウレン)として掲げられています。

柱聯とは、柱や壁に相対に掛けて、飾りとする細長い書画の板・・・なるほど2句ですが、右は「不闕日日之影向」、左に「検知處々之遺跡」、

日々の影向(ヨウゴウ)を闕(カカ)さずして、処々の遺跡を検知す・・・影向とは神仏が一時姿を現すことだそうです。

「お大師様は毎日御廟から姿を現され、所々を巡っては私たちをお救い下さっている」という意味とのことです。

仁王様、右側の阿形像は5.46m、・・・密教で阿はサンスクリット語の最初、吽は最後の音・・・転じて宇宙の始まりと終わり、さらに、一対・・・いろいろと進化してきました。

 左の吽形像は5.58m、特筆すべきは奈良の東大寺南大門の仁王像に次いで2番目に大きい巨像で、江戸時代1696年から7年にかけて、当時の著名仏師が仁王像の仕様書、見積書などを提出されていた資料が伝わっています。

高野山の案内図が右端にありました。 

これから向かう、壇上伽藍を拡大してみましょう。チョット見にくいですね。

では、車に戻り・・・三差路を直進すると・・・この春、高野山開創1200年記念大法会に間に合うように3月28日に開通しました「高野山道路」に進みます。

通常約5000台のバスや乗用車が入山しているそうです。連休や催事には、ここから奥の院まで街中が大渋滞します。この街中のバイパスとして街の南側にトンネルが半分を占める道路が開通していました。

では三差路を左折し、街に入りましょう。壇上伽藍へ・・・

 

 

 

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