ダビデの顔にハートが隠れてる・・・昔そんな情報で、アップの画像を撮っていました。
・・・瞳の中のハイライト、・・・確かにハートがありました、・・・この作品はレプリカですが。
ここは観光の定番コース・・・、1875年に完成した、丘の上にあるミケランジェロ広場です。
・・・フィレンツェ・・・今年のカレンダーに掲載された建築物は、・・・花のドゥオーモでした。
フィレンツェのドゥオーモと言えば・・・
1296年、この頃には最後の十字軍も完敗して、パレスチナから最後の兵も撤退しています。
フィレンツェの街はヴェネツィア同様商売繁盛、最盛期を迎えつつあります。
北ヨーロッパから羊毛を買い付け、染色・加工の毛織物で財を成し、その財が貸金業・金融業で発展し・・・人口は5~6万人。
・・・14世紀には10万となりヨーロッパでは、ヴェネツィア、パリ、ジェノバと並ぶ大都市となります。
景気の良いフェレンツェでは・・・威厳のある教会を建てよう、石組で、見たことも無いような巨大な建物が良い・・・
やがて、外観ができてきました、・・・祭壇の周囲まで組み上がった、・・・が、なぜか空が見える。
・・・ポッカリと上部は穴が開いたまま、・・・雨、風が吹き込む・・・しかし、屋根が架けられない。
この巨大な石材では重すぎて、円形に橋を架けるようにはできない・・・延々と中断が続き、
諦めていたが、何とかしなければと・・・1418年、有志が設計コンペを行い・・・
・・・難産の末に、金細工師の二重ドーム案で完成したドゥオーモです。・・・やはり、印象的な作品、これが主役でしょう。
広場の展望台から旧市街のパノラマを見てみましょう。
手摺の手前に、洒落た案内板があります。
アルノ川は右が上流ですから左に流れています、下流にポンテ・ヴェッキオ、
もう少しアップにすると・・・
フィレンツェのランドマーク、目立ちます。
枢機卿の帽子のような、王冠のようなユニークな形状です。
四角錘の鐘楼も重厚感があります。ドーム(クーポラ)は・・・落ち着いた赤茶のレンガ色です。
街の色調が統一されているので、青や緑の屋根はありません。電線や、パラボラアンテナ、空調設備も目立ちません。
トスカーナ地方は、街の景観を厳しく規制しています、例えば、窓枠の色は緑色か茶色・・・アースカラーです。
縦長のラグビーボールの上に、人が見えますが・・・展望台です。
もちろん、エレベータはありませんが、内側を階段で登れます。
・・・川向こう、目前に見える茶褐色の大きな建物は、サンタ・クローチェ聖堂、手前側に修道院
橋を渡って、この大きな建物の向こう側の通りを左側に歩いて行くと・・・教会前の広場に出る。
その先、目指すは、この時計台がある市庁舎:ヴェッキオ宮
それから・・・シニョリーア広場を抜けて、その先を左に曲がるとやがて・・・ポンテ・ヴェッキオ・・・が。
ヴェッキオ橋の上、2階建てになっているヴァザーリの回廊が・・・ここから良く見えます。
・・・、前方から・・・この広場の横をジョギング、・・・羨ましい、・・・走って旧市街に行きたい・・・。
1km7分弱のジョギングペースで、広場まで2kmくらいですから14分・・・ ここは石畳では無いので、走りやすそう。
FitBitで脈拍を管理しながら、GPS機能でジョギング跡がスマホに表示できる機能もあり、最近のジョギングは楽しいですよ。
・・・ついて行くのは諦めて、バスで旧市街の城壁まで移動です。
さて、教会の横の通りから・・・サンタ・クローチ広場に出てきました。
中世の時代、贅沢三昧なキリスト教の聖職者達、・・・世の中は階級社会、しかし聖書の教えは少し違うのではと、
・・・アッシジの27歳普通の男性が、聖書の清貧の教えを聖職者のラテン語では無く、市民のイタリア語で説明すると、
評判になり・・・聖フランチェスコとして修道会を創設し、異端と指摘されることなく、法皇の認可も受け・・・新風が吹き始めます。
(同時期に同じように清貧を重んじたドメニコ修道会も結成されています、が・・・こちらは神学に重きが・・・。
ドメニコ派のサン・マルコ修道院は、コジモ・デ・メディチにより1443年頃再建されていて、この街では有名になる。
フランチェスコ派と同じように修道会として行動しているので、ライバル視されていたようです。)
フランチェスコ達は急激に信徒が増え、アッシジからこのフレンツェのアルノ川中州に移り・・・13世紀にフィレンツェ市民が費用を負担し、
この湿地帯に教会と修道院を建立します・・・15世紀頃にはこの教会・修道院などが完成しているようです。
サンタ・クローチェ聖堂、・・・色大理石のファサード、清楚な、華美でない、端正なゴシック建築です。
ガリエロ、ミケランジェロ、ロッシーニ、マキャヴェッリ・・・、非常に多くの有名人が埋葬されている教会です。
多分ここは入場が有料になったと思います。
・・・広場の端から北西に路地を進みます。
路肩の窪みに・・・水たまりが、結構気になります。
石畳みの表面の色も・・・黒ずんでいるようで、補修予算が少ないのかな・・・
四つ角に出ました、・・・右側にサン・フィレンツェ広場が見える
これは裁判所、・・・向こうの塔・・・
右に鐘が見えるのがバルジェッロ宮、塔は54m、13世紀の建物で現在は、バルジェッロ国立博物館
ここはルネッサンス時代は、警察署に使われていて、・・・悲鳴・うめき声も聞こえてきた、拷問によって。
その先の左、建物の向こうに、さらに高い70mの鐘楼が・・・ここはフェレンツェ最古の教会です。
10世紀ベネディクト会の修道院が建ち、清貧・貞潔・服従を説き、祈り・働け がモット-ですから厳しい修行です。
1071年には病院が併設されていますので、すごいですね。13世紀に建て直されその姿が・・・今日に。
・・・では、この角で左に折れ、次を右に曲がり
右の市庁舎と左の美術館を繋ぐ、渡り廊下が見えてきました。
アーチの渡り廊下の向こうにも、アーチの回廊のある建物があります・・・彫刻が沢山あるようです。
渡り廊下の下・・・こちらもアーチが続いています。
ウフィッツィ美術館です。
こちらの展示作品は、・・・今日でも光が当たり続けています。
以前の画像です。
シニョリーア広場に進みましょう。
設置場所で屋内だ、外が良い・・・ミケランジェロがこの位置、市庁舎前にこだわったという「ダビデ像」がこちらです。
これも劣化が進むのでレプリカですが(本物は、すぐ近くのアカデミア美術館)
シニュール広場は、観光地です。
警備も重要です。
ショルダーバッグ・・・厚みがありますね・・・違反切符の綴りでしょうか・・・
制服が無いと親子のようですね。
こちらでは、記念写真。・・・突然、ビックリしました? 動いた? 嘘・・・彫刻でしょう、ロボット?
最初に訪れた昔の画像がこちら
花の都、でも色々なことがありました・・・
気になっていたことが・・・
男性二人が地面を見つめています。
何やら視線の先には、マンホールのような物が
これは、・・・1498/5/23、不正なる判決によって、修道士ジローラモ・サボナローラ・・・ 略。
あの ボッティチェルリの絵画も、・・・堕落させるという贅沢品が市民から集められ・・・焼き払われた。
貴重な品々もあり、ヴェネツィアの商人が〇〇で買い取らせてください。しかし、受け入れられず・・・焼かれた。
翌年もまた焼き払われた、その場所でしょうか?
・・・この街でイベントとなる歴史行列、5月23日の歴史行列では、この場所に花が置かれる。
当時の様子を描いたものが、・・・ここから北に約1kmのサン・マルコ美術館に作者不詳で掲げられています。
1498年5月23日のシニョリーア広場
市庁舎の左横、遠方にサンタ・クローチェ聖堂が、・・・左の角型の鐘楼はバルジェッロ宮、その隣にベネディクト会の修道院
花の大聖堂のドォーモも見えます。
気になるのが・・・市庁舎から花道のような・・・舞台が伸びた先で、焼かれているのは・・・贅沢品?
3人が火刑にされています。ショッキングな史実を描いた絵です。
火刑にされたのが、サン・マルコ修道院院長サヴォナローラ、そして他修道士2名、・・・
塩野七生女史:「神の代理人」では、サヴォナローラと法王の書簡、フレンツェの商店店主、法皇の秘書官の日記で構成されたドラマが描かれています。
当時の様子がリアルに描かれていますので、抜粋させていただきます。
まず、この火刑から・・・さかのぼること50日、
1498年4月7日、やっと真実が証明される日がやってきた。法王から破門された預言者をフィレンツェの人々は信じ続けていた。
フィレンツェの人々が、朝からこの広場に続々と集まってきた。
ビッキオ橋の方面から進んできた人々は、角を右に曲がると時計台が見えてきた。
日記の薬種香料商人(近くのお店の主人)は、もう1本裏の通りからこの広場にやってきた。
ドォーモの鐘楼の方からの人々は、カルツァイウォーリ通りを進むと、
正面にランツィのロッジア(回廊)が見えきた。ここに本日の主役が並びます。
東地区方面から集まってきた人々は、市庁舎の横から入ってきたのでしょう。
4月7日、仕事などする人は誰もいない、広場の入口は閉鎖され、3か所だけの入口は武装兵士が警備している。
女・子供は入れない。さて何が始まるのでしょう。
政庁が昨日実行と決定し、準備が進んでいた。・・・政庁から斜めに、広場中央に舞台がせり出していた。
レンガを積み重ねた土台は、高さ1.5m、その上に幅6m、高さ2.4mの廊下は両端に大量の薪の束が並び、中程1.2mが通れる通路だった。
(火刑の絵画にあった木製の通路と違い、耐火れんが造りで重厚な造りのようです)
この廊下が30m続き、木材と薪の間には所々に火薬が置かれ、油も振りかけられた。
広場は立錐の余地もないほどの人だ。正午の時刻が迫ってきた。
・・・サンタ・クローチェ教会(広場の東側 0.5km)の方角から、フランチェスコ派の修道士たちが入場してきた。
静かな人々で・・・こげ茶色の修道衣に縄の帯、ロッジ(回廊)の政庁側の席に着いた。
・・・サン・マルコ寺院の(広場の北側から 1km、ドゥオーモの方向)方角からドメニコ派の修道士たちが入場してきた。
二列縦隊で聖歌を合唱しながら・・・黒の僧衣の修道士250人位の中に火のような色のビロードの長衣を付けた修道士ドメニコ、
大きな十字架を捧げ持ち、その後ろにキリスト像をかかげた修道士サヴォナローラの姿が見える。
修道士たちの列に続いて多くの人々がたいまつやろうそくを手に持ちそれに続く。
サヴォナローラ崇拝者たちは広場を半周してロッジの反対側に着いた。
・・・準備がすべて整った、早朝から待っている群衆は、今にも火が点けられるかと、かたずをのんで見守る。
昨日、政府委員会が ”火の試練” をサン・マルコ修道院に伝えたのだった。
・・・ご存知の方も多いでしょう。レオナルド・ダ・ヴィンチと同じ1452年生まれ
ジローラモ・サヴォナローラ:ドメニコ派修道士です。・・・これも、サン・マルコ美術館
・・・フィレンツェといえばメディチ家、当主のロレンツォ・イル・マニフィコが知人からサヴォナローラを推薦され、サン・マルコ修道院に呼んでくれた。
1491年、39歳でサン・マルコ修道院院長に就任、
1492年、メディチ当主のロレンツォ・イル・マニフィコが亡くなる。
サヴォナローラは、花の大聖堂ドゥーモなどで、メディチ家のような贅沢を批判し、質素な生活を説きます。・・・さもなければ敵の手に堕ちると。
同年、ローマ法王の選出(コンクラーベ)は、枢機卿の買収合戦の末、アレクサンデル6世が誕生した。
この法王は、キリスト教会史上最も悪名高い法王といわれる。聖職売買、親族登用が盛んに開始され始めた。
1494年 フランス王国のシャルル8世が9万の軍勢でナポリに向かう途中、領国内通行の自由と必要物資の提供を要求してきた。
サヴォナローラは、民衆に説教した”私の預言は的中した。神自らあの軍勢をひきいておられる。神の怒りの試練、鞭がふりおろされる。・・・”
メディチ家の当主を継いだピエロがフランス軍勢に弱腰の対応をした結果、民衆が暴動、メディチ家一族は追放される。
・・・フィレンツェでは共和制が復活した。
・・・サヴォナローラは、敵の手に堕ちると予言した救国の預言者として、政治にも影響力を持つことになる。厳しい禁欲生活を強要して・・・。
1496/2/7 商店店主:頭巾をかぶった少年少女たち、路という路を走り回り、少しでも贅沢品を身に付けていれば人々からそれを取り上げ、子供たちの玩具まで奪う事件が起きた。
修道士の少年たちが近づくと逃げる者もいたが、それでも堕落した習慣を追放する、この行為をほめたたえていた。私も新しい時代に生きる幸せに恵まれたものである。
・・・法王からサヴォナローラに書簡が届く”・・・預言は自分が言うのではなく、また人間的な知識から得たものでも無く、神の啓示によるものだ”と言ったという。
これは、私の羊飼いとしての義務に属することなので、じかに会って、神が選んだというおまえの口から神の啓示を聞きたいと思う。訪ねてくるように。
・・・聖職者としての法王を批判し、再々の呼び出しを書簡で断り続け、・・・サヴォナローラは法王から説教の中止、さらには・・・破門にされる。
1498/2/18 日曜日、花のドゥオーモで説教を再開し、その後も毎週のように説教が続いた・・・神の預言者としての振る舞いで。
・・・法王は、目に余るサヴォナローラを異端者として処刑する、と・・・殉教者となられては困るのである。
聖職者としての法王は多分失格者だが、俗界の人間としては知識は優秀、家康のように我慢強かった。
法王は、フィレンツェの大使から再々の赦免願いに・・・サヴォナローラの教理は間違っていないが、説き方が問題という。
説教師の立場の重要性を考えると、多数の民衆と同時に接する唯一の立場なのだ。
ざんげが 1 対 1 であるのに比べ、その重要性は計り知れない。
説教師の責任が問われ、教理の根本が正しいだけでは不十分だ。
根本を把握し理解できる人は少数で、素朴で単純な人々は説き方次第でどんな方向にも動いてしまうものだ。
根本などは忘れてしまい、説くのに使われた材料の方が、大きく印象づけられてしまうのだ。
説教師は、どう説くかにも責任を持たねばならない。
サヴォナローラの説き方が、扇動的でその責任を感じていないことを・・・フレンツェの大使に伝えた。
・・・3/27、サンタ・クローチェ寺院で説教したライバルとされるフランチェスカ派の修道士が、
サヴォナローラが、真の預言者であることは神が奇跡によって示される と言う・・・では、実証しよう”火の試練”で挑戦する。
・・・フランチェスコの挑戦は、彼とサヴォナローラが、相前後して燃え盛る火の中を歩いて通り抜ける。
サヴォナローラが焼かれなかったら、預言者として認め、彼に従うと言う。
3/28、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花のドゥオーモ)で説教した修道士ドメニコが、昨日の挑戦を受けると発表した。
その足で政庁に行き、”火の試練”の署名をした。
3/30 フランチェスコ派の修道士ロンディネッリも署名した。相手にサヴォナローラを指名したが・・・受けなかった。
4/5 フィレンツェ大使がローマ法王を訪問し、
「本国政府は、”火の試練”について、猊下(ゲイカ)はどのようなお考えなのかを知りたいと申しております」
・・・「私は不賛成である。それどころか、非常に不愉快な気持ちで、この知らせを受けた。
なぜならばこれは、神を試すことである。キリスト者にはあるまじき不遜な行為だ」
4/6 ローマ、ヴァティカンでは、誰一人、修道士が無傷で出てくると信じている者はいない。
焼死の可能性の方が強いくらいだ。予言者も気の毒だ、民衆を満足させるため、奇跡を行ってやらねばならないとは。
だが、自ら始めたこと、後始末は、やはり自分自身でするしかない。
・・・話を戻そう ”火の試練” ・当日 ・・ところが、催し物はなかなか始まらない。
朝から何も食べていないのに、正午から3時を過ぎても、両派の修道士の対決が始まらず・・・不穏な空気が流れたが、兵士に制止された。
・・・ドメニコ派がキリスト像を持って火に入ると言う・・・それは神への冒涜だとフランチェスコ派、ドメニコ派が譲らず・・・政府と協議が、何度も・・・
夕方5時頃、突然 パラパラと雨、・・・すぐに豪雨になった。
その時、屋根のあるロッジにいたドメニカーノの何人かが立ち上がり「奇跡だ!奇跡だ!神が”火の試練”を望んでおられないという証拠だ!」と叫んだ。
われわれは怒った。何時間も待たされ、雨まで浴び、怒声が飛び交う・・・ドメニコ派はやる気がなかったんだ。
・・・結局、政府が中止を決定、・・・群衆は叫んでいた。「われわれは欺かされたのだ。あの偽預言者のために欺かされたのだ」
・・・
結果は、両派とも引き上げ、市民の外出禁止、預言者サヴォナローラを増悪する群衆が彼を殺そうとしていると噂が広まる。
( 夜のシニョーリア広場 )
4/8 民衆の怒りが爆発し、花のドゥオーモではドミニコ派の修道士を引きずり降ろし、”サン・マルコ”へ・・・
修道院襲撃、関連先の襲撃・略奪も続き、・・・政府代表はサヴォナローラと配下の二人をやっと深夜2時逮捕、・・・
警察署で拷問・・・「自分は預言者ではない、説教は神の啓示ではないと」自筆で書いたものが、後の裁判で読み上げられた。
4/9 4年間に渡ってフィレンツェを支配したサヴォナローラ、一夜にして崩れ去ったと法王の秘書官は書き残している。
・・・
5/20(日曜日) 政庁内で公開裁判、人々はミサにも行かず、それを見に行った。
司教は、サヴォナローラに「神の言葉を聞いたこと、預言者であることは、嘘でしたと言ったことを認めるか?」
・・・「認めない!、自分は預言者だ!」
サヴォナローラは、結びつけられた縄で高々と吊り上げられ・・・
・・・「認める!私は罪人だ!神の声は聞かなかった!」
裁判はこれで終わった。
5/22 商店店主:サヴォナローラ、修道士ドメニコ、修道士シルヴェストロの3人に死刑の判決が下った。
罪名は、異端の罪、分派運動を行った罪、聖ローマ教会に対する反逆の罪である。
処刑は、まず絞首刑、その後に火刑、日時は・・・翌朝と決められた。
----気になる処刑の絵について、こんな状況であったかも---
商店店主:5/22 夕刻に広場を通った時、準備は完了していた。
見ていた人から”修道士たちは十字架に掛けられるのだ”というだ声がした。そうだ、そうだの声
・・・役人が出てきて、横木の上に出ていた柱の先が削られた、T字形にして十字架に見えないようにするためだろう。
5/23 政庁前桟敷席、法王特使、政府高官、地区高位聖職者、そしてあらゆる会派の僧たち、
広場の群衆は、”火の試練”の日よりも多いほどだ。
三修道士が連れだされ、最後にサヴォナローラがつるされ、彼を信じていた者は、軌跡でなくても、何か言ってくれるに違いない・・・。
・・・だが、彼は何も言わなかった。多くの人をがっかりさせ、彼への信仰を失わせた。
火が点けられ、火は高い柱を駆け上がり、・・・四肢が下に落ちてきた。残った胴体を落とそうと群衆は石を投げた。
落ちた胴体も徹底的に焼きつくされた。信者の手に、何も渡らないようにするためである。
手押し車が運ばれ、焼きつくせなかった骨片と灰が積み込まれた。
武装兵に囲まれて、ポンテ・ヴェッキオへ向かった。
昔の画像です。
100m先は橋
肉屋街が立ち退かされて、金・銀・宝飾店が多くなり
ウインドウ・・・商品が気になるが・・・良く見えない?
値段が?
サヴォナローラは、今日の教育を受ければ、宝飾品販売や販売促進行為、贅沢をすることは悪とは言わないでしょう
格差社会と貧富の差に対して、どのように発言するでしょうか、・・・羊飼いは、世の中の羊が多くなって大変でしょうが。
・・・この中央部あたりから、・・・手押し車の骨片と灰が撒かれたのでしょう。
橋の中央から振り返えると、下流側には銅像と回りの手摺に南京錠が・・・思ったより少ないが・・・
銅像は16世紀、金細工の父として近くの宝飾店たちが建てたようですが・・・
アルノ川に遺灰ではなく、・・・ここで南京錠に鍵を掛け、二人で小さなカギを川に投げ捨てると・・・この南京錠が永遠の愛の鍵とか?
昔は山のように付いていましたが、・・・160€ 罰金となったようです。
結構な金額です・・・昔はOKだったのですが、知らなかったでは済まないでしょう。
・・・そうです・・・昔は良くても・・・川に物を投げ込むのはやめましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます