トチ、ブナ、クリにそうしていたように、カヤにも年越しそばをご馳走した。細く長く生きられますように。
先月、千恵ちゃんからケント・M・キース著『それでもなお、人を愛しなさい』を頂いた。キース氏が提言する「逆説の10カ条」のうちのいくつかを、マザーテレサが大切にしていたという。
以下、同書より。
「この世界はまったくどうかしています。
これまで人類のために役立ってきた知恵から、多くの人たちが逸脱しています。中には、すべてのことは相対的であり、主観的であるという結論を下している人もいて、どんなことにも意味はなく、人生は空虚で意味がないと不平を言います。
確かに、この世界は狂っています。あなたにとってこの世界が意味をなさないと言うのなら、それはあなたの言うとおりです。この世界はまったく意味をなしていません。
大切なことは、それについて不平を言うことではありません。希望をすてることでもありません。それはこういうことです。世界は意味をなしていません。しかし、あなた自身は意味をなすことが可能なのです。あなた自身は一人の人間としての意味を発見できるのです。」
料理研究家で随筆家の辰巳芳子先生曰く、
「愛は人の中に在るのではなく、人と人の間にこそ在る。」
今年もさまざまな経験をさせてくれた方々に感謝。私を信頼し、命を預けてくれた犬たちに感謝。そばに寄り添ってくれる犬猫に感謝。
もうすぐ2013年が暮れていきます。
昨年は年の瀬をどう過ごしたか、思い出そうとしても思い出せない。ブナが徘徊していろいろなところにぶつかるのを防いだり、粗相をしたヨガマットをひたすら洗ったりしていて、暮れの大掃除どころではなかったことは確かなのだけど、思い出そうとすると陽だまりに横たわるクリの亡骸が頭に浮かんでしまう。
哀しくなるだけなので、思い出せないものは無理に思い出さなくていいや。何も考えず2年越しの汚れをぬぐうために、今年はただひたすらに大々的に掃除をしようと思っていた。
が、しかし、暮れの土日は両親の手伝いに駆り出され、実家のガラス窓を拭いたり、浴槽カバーを外して丹念に風呂掃除をしたり、結局自分の家は後回しになってしまい、大々的にとまでいかなかった。
父は83歳、母は78歳。老いが目立ち、年々できなくなることが増えてきた。お風呂場や窓ガラスの掃除だけでも「助かった、助かった」と大喜びし、腰を悪くして自分の足の爪も満足に切れなくなった父の爪を切ってやるそばで「私ではできないから」と母は言う。目が悪い母は父の爪の脇の肉まで切ってしまったらしい。
階上に住んでいる兄嫁さんは、頼めば何でもしてくれる優しい人だけれど、娘のほうが何でも気楽に頼めるのだろう。
何もできなかった赤ん坊が親兄弟だけでなく、たくさんの人の手を借りて成長していくのと逆に、まるで乳児に還っていくかのように、高齢になるといろいろなことができなくなる。今度はこれまでしてもらったことを子どもたちや他の人たちが年配者にお返しをする。そうして人は老いを過ごし生を全うしてゆく、それが自然のサイクルなのかもしれない。
理想ではあるけれど、高齢になっても身の回りのことを何でも独りでこなし「ではこれから逝きます」とばかりに、すっと旅立てる人はそれほど多くない。
例えば私は「犬たちとあと何回一緒に桜が見られるだろう」と毎年思いながら暮らしてきた。それと同じように「両親とあと何回一緒にお正月を祝えるだろう」と考えたら、もういくらもないのではないかと思う。
それならせめて喜ばれることをお返ししようと思い、自分のことは後回しにしてでも、母の年賀状の用意やら父の家業の年賀品の発送やら掃除を優先して片付けることにしたのだった。
実家を出てしまうと、自分の親でも一年のうちにそうそう多くは会わなくなる。彼らが60歳台のときはさほど気にしなかったけれど、さすがに老いが目立つようになってくると、犬たちに感じたように命に限りがあることを思わざるを得ない。
そんなことを思いながら、昨日になって自分のうちの窓ガラスを拭いたり、カーテンを洗って掛け直したり、せっせと大掃除をしたら、まあ、なんと明るくすがすがしい室内になったことか。照明や水周りをもう少し掃除したら、雑煮用の出汁とお煮しめの準備を始めようかな。
そうそう、カヤもシャンプーしてあげよう。歳神様がカヤをなでてくれるように、きれいな被毛にセットしてあげよう。