戦後、GHQ(連合国軍最高司令部)により“農地改革”され、最高司令官は、マッカーサーであった。農地改革はGHQの指揮の下、1947年(昭和22年)、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指している。
元々、官僚の間には農村の疲弊を打開するために地主制度を解体する案はあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものを、GHQの威を借りて実現したといえる。
この結果、戦前の日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後の農村は自作農がほとんどとなった。そのため農地改革は、GHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。この改革で、私の叔父は農地を安く手に入れることができた。しかも、アイヌの人たちと違って肥沃な“音幌農場”の一角で収量も良かったようだ。
音幌農場は、音更一号から九号まであり(約五キロ)、東西では基線一号から四号まで(約三キロ)の範囲で、約300ヘクタール。
音幌農場は元首相であった斉藤実(まこと)が所有し、首相を辞めたあと、音幌農場管理事務所のそばの屋敷に住み晴耕雨読の生活をすることにしていたが、二・二六事件で殺されたために、この屋敷に一度も住むことはなかった。なお、近代日本資本主義の父と言われる渋沢栄一が農場主であった十勝開墾合資会社の農場は、20倍の約6,000ヘクタールであった。
叔父は農家をしていたが農耕馬が死んだため、ふたたび馬を飼うことができず離農を余儀なくされている。当時の馬は貴重で、1頭30万円以上もしていたと思う。帯広駅から音更市街までのバス料金が大人25円であったことを考慮すると、約500万円になる。当時の馬は今の高級車並みの価格で、手に入らなかったのである。
元音幌農場管理事務所兼自分が住んでいた家は、叔父の家に近かったこともあり家族で草取りなどの援農に出かけたこともあるが、離農で水の泡に終わってしまったのである。
また、叔父は俳句をやっており、「音更町100年史」に“白露”の俳号で載っていたが、きっと奥深い俳句を作っていたのだろう。なお、白露とは秋の季語である。
「十勝の活性化を考える会」会員