私は何事にも無関心でないが、あまり気配りができない。先日、50歳の時に糖尿病が原因で失明した人(73歳)と難聴者(73歳)の3人で情報交換する機会があった。難聴者の人は何かと失明者に気配りしていたが、彼も障害者だから失明者の気持ちが分かるからであろう。
この気配りのことであるが、現代人に余裕がないので気配りをしなくなっている。なぜ気配りをしなくなったかの原因を考えてみた。それは今の日本を見れば分かるが、資本主義が高度化すればするほど生産性を追求し、自己中になっていくからである。だから、資本主義を変えれば良いのであるが、そんな簡単なことではない。
ところで先日、4年前に出会った中途障害者の方から、この気配りについてメールがあったので、その一部を紹介したい。
『 私は障害を発症し、昨日まで出来たことが今はできない。この事実を早く自覚することが、「再スタート」する上で大切なことだと思います。障害のある無しにかかわらず、定年を迎えて何をやったらいいのかと、「再スタート」ができない人が見受けられます。過去の自分とオーバーラップし、「あの時はよかった」と思い出にふけって、空回りをしている方をよく目にします。
私は「発症したことはしかたがない」、「では、どうしたら自分らしい生活を取り戻すことができるか」ということが、私にとって自覚になりました。
私は公務員時代、2~3年で転任します。自ずと長くその仕事をしている人には敵いません。それを踏まえ、皆にいかに気持ちよく仕事をしてもらうかをいつも考えました。良い仕事をしたときには、皆の前で褒める。逆にミスがあった場合には、人がいないところで指摘する。
そして何よりもただの「お任せ」ではなく、全体像を把握し、効率のいい方法を描いておきます。上からでなく、皆に納得してもらうことを心がけていました。実は本会でも心掛けています。本来、自分で何でもかんでもやるのが楽です。
しかし、障害を抱えて自分一人ではこなせない。ではどうしたらいいのか。人の特性を見抜き、気持ちよく仕事をしてもらう。現理事長は、この半世紀ずっと水泳をしてきました。出会ったときには、ただ家庭の主婦で、経営のことは何も判りませんでした。
しかし、彼女は本人も気づいていない“輝”ものがあり、それを磨けば“オンリーワン なるもの”が出来ると確信し、活動資金を調達し一緒に本会を設立しました。
彼女には、卓越した「コミュニケーション能力」があり、根っからのスポーツマンです。今までありそうでなかった、スポーツの可能性と新しい障害者福祉を融合すると何ができるのか。今や彼女は、一目を置く存在となりました。
このように障害を抱えても自分には「自覚」があり、それでも社会に対して何がしたいのかと考え、若いころに身に付いたやりたいことをやっています。私にとって「気配り」は自分一人ではできない、どうしたら達成できるのかを考えると、自然と気配りになります。』
私はこのメールを読んで、あらためて人材作りのことを思った。組織は人によってつくられているが、上に立つ者がその人材を作っていくからである。だから、上に立つ者はそれなりの人格を備える必要があるが、この人格を作っていくことがとても難しい。
現代人を見ると、自分に対する気配りや悪い意味の忖度はできるが、他人への気配り(配慮)ができない人が増えているような気がするのは自分だけであろうか。現代人が、「自己中心的」でなければ良いと思っている。
「十勝の活性化を考える会」会員