十勝の活性化を考える会

     
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CAP大人ワークショップ

2022-12-18 05:00:00 | 投稿

 

先日、「十勝プラザ」というイベント会場で行なった、“CAP大人ワークショップ”に参加してきた。参加者は約25人で、女性教師が多かったようだ。

CAPは、Child(こども)へのAssault(暴力)、Prevention(防止)の頭文字を取ったもので、子供たちから虐待・いじめ・誘惑・痴漢などあらゆる暴力から、自分を守るための人権教育プログラムで、主催は「十勝CAPそらの駅」であった。

子供への暴力は、親の虐待や子供同士のイジメなどたくさんある。一方、大人の世界にも、セクハラやパワハラ、ヘイトスピーチなどがある。これらはすべて、人間の持つ弱肉強食の本性に関係しているのではないだろうか。現代は生きづらい社会になっていることは確かで、競争社会の進展が子供同士のイジメにもつながっているような気がしてならない。

人間は本能的に、強いものが弱いものをイジメたり困らせたりする動物だと思っている。これは、アフリカなどの動物を見れば分かるだろう。なお、ワークショップでは性被害に対する護身術のこともやっていた。私は学生時代に空手をやっていたので、“金蹴り”も男性には有効な技のような気がした。

既述のCAPに関連して、「権利」と「義務」について思うことがあった。それは、今の社会は権利ばかりを主張して義務というものを果たしていないのではないだろうか。無理が通れば道理が引っ込むように・・・・。

日本では、個人の権利を主張する人が増え、相手に対する思いやりや感謝の気持ちが薄らいでいるような事件が頻発している。我が子への虐待やイジメなども同じ理由と思うが、自由が高まれば高まるほど人間は、“個人中心主義”になるのではないだろうか。

個人の人権が憲法12条で保障されているが、一方で公共の福祉というものがあるので忘れてはならないと思う。個人を大切にしたばかりに、公共の福祉が失われるような社会では困るのである。

なお憲法学者が、障害者の「権利」と義務」について次のように言っているので、参考までにその抜粋を載せよう。

『 今回は社会福祉の観点から、日本国憲法第25条に関し、権利と義務の関係を説明させていただきます。憲法25条は、社会権の一つである生存権(権利)と国の社会的使命(責務)のふたつを定めています。

旧日本社会党議員だった森戸辰男、鈴木義男らが、ワイマール憲法を参考に起案しました。当初、GHQ草案には、第1項にある『健康で文化的な最低限の生活』という条文は、含まれていませんでした。

社会福祉の根幹である「基本的人権」の重要な構成部分になっておりますが、この条文には、「こうあるべき」という理念規定に留まり、人により法解釈が違ういびつな形で展開されてきました。

そもそも戦後の障害者福祉は、二次大戦で負傷した傷痍軍人の保護が急務でした。つまり、国民の生存を国が確保すべき政治的、道徳目標を定めたに過ぎず、具体的に権利を定めたものでないという学説が主流です。

言い換えると、生存権は「国民の生存を国が責任をもって確保しなければならない」という規定となり、主体は「国民」ではなく、あくまでも「国」になります。このことを「国家責任主義」といいます。国は社会生活を営む上で、権利と義務を表裏一体と考えています。

しかし日本国憲法では、権利と義務を比例するような条文は、どこにもありません。とりわけ障害者福祉では、当事者ゆえに義務と権利を強く感じ、「義務」を果たすべき役割と考えています。

「障害者」という属人的カテゴリは、法の定めにも定義でも「特別扱い」(権利)を想像する言葉がありません。自分は障害があるから権利があると考えている当事者や支援者が何と多いことを感じてしまいます。

ではどうしてそのように感じてしまうのでしょうか。わが国の制度(法律)の捉え方は、医学モデルに沿って区分を設けて、それに収まった人を「障害者」としています。人権で大切な『尊厳』では、「全ての個人が互いに人として尊重」することであり、年齢や心身状態で分けるのではなく、すくなからず、「患者」や「障害者」、また「高齢者」と考えるのではなく、一人の生活者であるべきだと思います。そのためには、一人ひとり相応の努力や果たすべき役割が必要だと思います。』

「十勝の活性化を考える会」会員