令和12月11日、「帯広百年記念館」で、別添のとおり“依田勉三の道をたどる“の講演会があり聞いてきた。十勝開拓の租“依田勉三”が30歳の時に13戸27名を率いて、1883年(明治16年)に静岡から現在の帯広駅から約2キロ付近の下帯広(オベリベリ)に入植している。晩成社の十勝開拓は、5年間にわたった空を真っ黒にするほどのイナゴの発生などにより困難を極め上手くいかなかった。
晩成社3人の幹部は、依田勉三のほか渡辺勝、鈴木銃太郎であったが、経営方針の違いから3年で鈴木銃太郎が、10年で渡辺勝がそれぞれ独立して開拓にあたっている。依田勉三は、今でいう猪突猛進型でコミュニケーション力が足りなかったらしい。
渡辺勝は、鈴木重太郎の妹であるカネと結婚している。当時、カネは23歳のクリスチャンで、横浜の女学校(現在の横浜共立学園)に学んだ才女で、「晩成社」の一員として十勝開墾にあたっている。
彼女は、私塾を開いて入植者の子どもたちに読み書きを教え、帯広の教育の基礎を築いている。「晩成社」としての事業は成功したとはいえないが、カネが子どもたちに施した教育は、十勝の住民に受け継がれ、「十勝開拓の母」とも呼ばれている。
カネには、印象的な言葉がある。「私たちの代が耐えて、この土地の捨て石になるつもりでやっていかなければ、この土地はそう簡単に私たちを受け入れてはくれない」と。晩成社の最初の一鍬が、今の十勝の礎になったことに間違いない。先の見えないコロナ禍の中、どこか「晩成社」の開拓者精神が、十勝人にあると思わざるを得ない。
これからの十勝は、地域住民の一人ひとりが幸せに暮らせるような地域を作ることが大切であり、地産地消の「地域内循環経済」の創出が必要である。生産活動が循環していけば新たな投資需要を生み、内発的な発展が期待され中心市街地の再興にもつながるのではないだろうか。十勝には、“十勝モンロー主義”という言葉がある。この言葉は、自分たちの地は自分たちで守っていこうというメッセージである。
「十勝の活性化を考える会」会員
※ 講演会のポスター
注)原野を切り拓き、農業王国の礎を築いた立役者
(「晩成社」一同と依田勉三)
- 写真:横浜にて (出典:北海道観光振興機構のHPより)