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日本陸軍の人事抗争

2016-03-14 04:08:12 | 日記
 日本陸軍の閥について書いてみようと思います。ただ、知識が乏しいのでちゃんとしたものが書けるかというのはあるのですが、知っている限りの事は書いてみたいと思います。

 日本陸軍の閥というのには、出身地、歩兵だとか騎兵だとかの違い、陸大出身者などなどでついたり離れたりという感じですし、ちゃんと構成員をそろえてというわけでもないので、あやふやなところもあるのですが、やはり組織としての人間関係となると人事抗争となるわけで、特に軍人だと大将になる、一流師団の師団長になる、陸軍大臣になるなどなどかかわってくるので、激しい争いともなってきます。

 まず軍が明治維新でできたとき、その中心となったのは薩摩と長州ですが、大きく分けると薩の海軍、長の陸軍となりました。しかしきっちりと分かれたわけでもなくて、薩摩出身の陸軍軍人で野津道貫とかもいます。ただ、やはり陸軍の長老として権力を握ったのが山県有朋だったので、長州出身者が陸軍の中枢を占めるということになりました。

 その代表が桂太郎で陸軍大臣もやって、日露戦争の時の首相で戦争を勝利に導いたともいえるわけではあります。それから田中義一も同様に陸軍大臣、首相となりましたが満州某重大事件で辞任してほどなく亡くなり長州閥が途切れることとなりました。

 また田中義一と争ったのが宮崎出身の上原勇作で薩摩閥につらなる人物ですが、長州閥が衰えたあと権勢をふるいました。また長州閥に対抗しようとしたのが陸軍大学を優等で卒業し陸軍省や参謀本部の中枢に勤務するようになった佐官クラスの将校たちで、彼らが陸軍大学の入学者の当否を決めることができる地位についたときには、徹底して長州出身者は陸軍大学に入学させなかったとのことです。

 また長州閥につかず離れずに出世したのが宇垣一成で、長期にわたって陸軍大臣を務めたこともあり陸軍中枢には宇垣閥がそろうことになりました。そんな中陸軍大臣になったのが荒木貞夫で、皇道派の重鎮と位置付けられていて、これまた露骨に自分の言いなりになる人間を集めたので反発を食うこととなりました。

 で荒木は皇道派の尉官クラスの青年将校から絶大な人気を得ていたのですが、そののち青年将校たちは二・二六事件を起こすことになります。ところが、荒木が病気で大臣を辞めた後に陸軍大臣となった林銑十郎が、陸軍中央を握っていた皇道派を排除していって真崎甚三郎を教育総監から辞めさせました。これに怒りを募らせたのが皇道派の青年将校で、ついには二・二六事件を起こすことになります。その二・二六事件当時陸軍中枢にいた満州組の石原莞爾は断固討伐を主張して事件を終わらせます。

 二・二六事件のあとには皇道派の将軍たちは陸軍中央からは排除されまして、俗に統制派といわれる将校たちの天下となります。戦争をするためには国家の全精力を統制しなければならないという考え方で、ちょうど発生した日中の戦闘を拡大させていきました。満州組の石原莞爾は日中が争うのではなく、満州の経営に力を注ぐべきだと主張しましたが、陸軍中央からは排除されることとなります。

 そして、陸軍大学を優等で卒業して、陸軍省、参謀本部の中枢を占める佐官クラスの幕僚が日米開戦に向けて突き進んでいくこととなります。

 ということで、陸軍の歴史は人事抗争の歴史でもありまして、これをわかりやすく解説してくれる本はないものかなあと思っているのでした。