広い境内、臨済宗のお寺の境内には多くの堂宇が並び、禅問答の楽しさを味わってください。
境内の図面です。
右上の端で北に向かう道路が祇園甲部の花街になります。
左側の境内の外を南北に通る「大和大路通り」の更に一つ西の通りが宮川町の花街になります。修行中のお坊さんは誘惑に負けなかった。
図の下の端に勅使門、北にまっすぐに法堂まで風が通過しました。
現在地は赤いところですが、今から方丈に入り、禅問答です。

鎌倉時代に栄西禅師の開山で臨済宗のお寺です。禅宗の草分けです。
ちなみに、福井の永平寺の開祖、道元禅師も栄西を師として、ここで修行をしていた。彼は中国に渡りその後禅宗の一派の曹洞宗を開いたと言う。
栄西が帰朝したときに、中国から茶の木を持ち帰り、わが国の茶の祖となる。
このお寺の境内の垣根の植込みはすべて茶の木である。

建仁寺といえば、俵屋宗達の風神・雷神の屏風があまりにも有名である。いきなりの座敷にどかっと立ててある。レプリカとはいえ立派なものだ。
ところがこの屏風にはどこにも俵屋宗達とは書いていない。にもかかわらず俵屋宗達の絵なのである。誰も疑うものもいない。

学者・研究者は言う。両者とも表情はどこか大変可愛く見えるのは勢いがない。
風神の袋が膨れ過ぎで躍動感がない。腕の動きなどは前に出ないで消極的である。
雷神は太鼓が上の端で切れているのは失敗作だ。腕などの筋肉の線は、支離滅裂である。筋肉の実感が出ていない。
しかし、それが俵屋宗達であるという。

左:中庭に中央に植え込みのある枯山水。名づけた庭の名前が「○△□の庭」。
確かに周りが廊下に囲まれて長方形である。中央に丸く円形の植え込みが作られている。その周りは石庭になって筋目がついているだけである。
三角が見当たらない。どこかと探してみたが判らない。ふと、目を瞑って考えると、三角が浮かんできた。砂の波の形に違いない。
庭の写真はご想像に任せます。
右:庭に面して床の間のある座敷があった。掛け軸は○△□である。

その床の間の隣には清楚な活花がある。これぞ禅の心、茶の湯の心である。人がいなければ、禅問答でもしたくなる場所である。
壁紙には五七の桐である。秀吉の息のかかった寺でもある。

境内の図面です。
右上の端で北に向かう道路が祇園甲部の花街になります。
左側の境内の外を南北に通る「大和大路通り」の更に一つ西の通りが宮川町の花街になります。修行中のお坊さんは誘惑に負けなかった。
図の下の端に勅使門、北にまっすぐに法堂まで風が通過しました。
現在地は赤いところですが、今から方丈に入り、禅問答です。

鎌倉時代に栄西禅師の開山で臨済宗のお寺です。禅宗の草分けです。
ちなみに、福井の永平寺の開祖、道元禅師も栄西を師として、ここで修行をしていた。彼は中国に渡りその後禅宗の一派の曹洞宗を開いたと言う。
栄西が帰朝したときに、中国から茶の木を持ち帰り、わが国の茶の祖となる。
このお寺の境内の垣根の植込みはすべて茶の木である。

建仁寺といえば、俵屋宗達の風神・雷神の屏風があまりにも有名である。いきなりの座敷にどかっと立ててある。レプリカとはいえ立派なものだ。
ところがこの屏風にはどこにも俵屋宗達とは書いていない。にもかかわらず俵屋宗達の絵なのである。誰も疑うものもいない。


学者・研究者は言う。両者とも表情はどこか大変可愛く見えるのは勢いがない。
風神の袋が膨れ過ぎで躍動感がない。腕の動きなどは前に出ないで消極的である。
雷神は太鼓が上の端で切れているのは失敗作だ。腕などの筋肉の線は、支離滅裂である。筋肉の実感が出ていない。
しかし、それが俵屋宗達であるという。

左:中庭に中央に植え込みのある枯山水。名づけた庭の名前が「○△□の庭」。
確かに周りが廊下に囲まれて長方形である。中央に丸く円形の植え込みが作られている。その周りは石庭になって筋目がついているだけである。
三角が見当たらない。どこかと探してみたが判らない。ふと、目を瞑って考えると、三角が浮かんできた。砂の波の形に違いない。
庭の写真はご想像に任せます。
右:庭に面して床の間のある座敷があった。掛け軸は○△□である。


その床の間の隣には清楚な活花がある。これぞ禅の心、茶の湯の心である。人がいなければ、禅問答でもしたくなる場所である。
壁紙には五七の桐である。秀吉の息のかかった寺でもある。
