ワシの家はこどもたちがでかくなってきたこともあって狭くてしかたがない。郊外移転計画も家族に反対され毎日身も細る思いで生活しているが、実際は太り気味である。
そんなこともあってテレビの前をようやくくつろぎスペースとして確保していたのだが・・・。
それが最近、Wiiを買ったものだから、娘たちからワシの唯一のくつろぎスペースを占領されてしまった。
「おやじ、あっちへ行ってえ」などといわれても行き場所がない。
ワシの家はこどもたちがでかくなってきたこともあって狭くてしかたがない。郊外移転計画も家族に反対され毎日身も細る思いで生活しているが、実際は太り気味である。
そんなこともあってテレビの前をようやくくつろぎスペースとして確保していたのだが・・・。
それが最近、Wiiを買ったものだから、娘たちからワシの唯一のくつろぎスペースを占領されてしまった。
「おやじ、あっちへ行ってえ」などといわれても行き場所がない。
某省の夏季軽装のお知らせ。注目すべきはポロシャツが入っているところ。まことに英断である。一般企業で夏季軽装を奨励していても、ポロシャツは禁止しているところが多いのではないか。ワシの知っている例ではポロシャツを許可するとド派手なポロシャツを着てくるやつが出現するはずだから風紀が乱れるというのがその理由であった。ワシの知っている例、というのがヘンなのかもしれないが、こういう服装のレギュレーションになるとわけのわからない話がよくある。
古くは中高で「ボタンダウンシャツは禁止」というのがあった。わしはこれをはじめて見た時、ボタンダウンシャツというのは暴力団がきるような洋服なのだとその後数年間信じ込んでいたものだ。
あとはイタリアンシルエットの背広がはやったとき、背広の背中のところにベンツ(切れ目)が入っていない背広は禁止というお達しが出た銀行があったらしい。友人の話だとブルックスブラザースのスーツを着て銀行に行ったら、ボタンが3つもある背広だとえらく注意を受けたのだと。
話はぶっ飛んだが、ポロシャツを禁止するかどうかというのは、それを決める人が、ポロシャツと聞いて鹿の子編みのラコステやポロの白のシンプルなものを連想するか、はたまたむかしゴルフ場でおじさんが着ていたポリエステル100%の派手っちいポロシャツを連想するかの違いなのだろう。少々迷惑で「お里が知れる」というレベルの話。
少し前に新宿の音音で焼き魚定食を食べた時に、それが鮭で脂が乗っていてえらくうまかった。それ以来、家で甘塩鮭を焼いて食っているのだが、妙にうまい。
今までしょっちゅう食ってきたはずだし、好きなもののひとつなのだが、年齢的にぴたりとはまるものがあったのだろうか、ここしばらく中毒のように食いまくっている。
特にご飯と一緒に食うのがたまらない。皮にへばりついた身をはしてすくって食うものだから、なかなか食い終わらない。逆に言うと少ない副食でご飯がしっかり食える。
それと皮。仕上げに皮をガムのように口に入れ歯でかむと脂がぎゅ~っとしぼりだされるようでまた最高。魚は皮が一番うまいという話を聞いたことがあるが、まさにその通りである。
↓こんなのも食ってみたい。
五輪代表にも呼ばれず、当然A代表にも呼ばれないヒラヤマ選手。テレビ中継もなかったナビスコカップでハットトリックの大暴れだ。(この試合見に行くとみんなに言っていたが、からだの調子が悪くてワシは国立に行かなかった。)
ヒラヤマ選手、今日の調子ならA代表でもじゅうぶん通用すると思う。とくに今度試合するタイランドは160センチ台の小さい選手が20人くらいでゴールを固めてくるはずだから、ぜったいに有利だ。
ということで、岡ちゃん、ヤンキー大久保の代わりにヒラヤマを呼んでくれないだろうか。ヒラヤマがポストになって玉ちゃんが走りこんで演技でPKをもらい、遠藤選手がこれを決めれば難なく先取点だ。ヒマラヤは何と矢野貴章より5センチも背が高い。
それからヒラヤマは国見の大久保の後輩だ。大久保がJFAにきっちり詫びを入れて「代わりに後輩のヒラヤマを・・・」とやれば、人情に厚いキャプテンカワブチも嫌とはいわないだろう。合宿にも呼ばれていないが、この際しかたないだろう。ヒラヤマ、タイ戦でハットトリック決めていっきにA代表に定着だ。反町を見返してやれ。
だいたい週に一度、土曜日の夕方、光が丘公園に行く。娘の習い事に付き添うからだ。きょうもそんな感じでN大光が丘病院の裏手をぶらぶらと歩いていた。そこへ。黒塗りの大きなワゴン車が。バックして光が丘病院の裏口におしりから入車していった。
そう、遺体を引き取りにきたのだ。ワゴン車から葬儀会社の人が出てきて、病院から白衣を着たお医者さんが出てきてシャッターを開け、葬儀会社の人がワゴン車からストレッチャーを出して・・・。
時間がなかったので、そこまで見て立ち去ったが。おそらくは今日の午前に亡くなられた方なのだろう。死というものを目の当たりにして、粛とした気分になったが、よくよく考えればあたりまえのことである。
病院で亡くなられる方が大半であろうし、毎日死ぬ方はどこにでもいる。大勢いる。生まれてくるひとも大勢いる。あたりまえなのである。人間は無意識に死を感じることに鈍感になろうとするし、身内に死人が出ない限り、直接的に死を意識することはめったにない。マスコミで死者の出たニュースを聞いてもぴんと来ないだろう。でも、生死はいたるところにある。あたりまえのことなのである。
75歳の父親の話だが、寝る前に薬を飲み忘れたら死にそうになったらしい。うちの父親は若いころ胃を切ったことがあるが、もともとスポーツマンで元気で、そんなに弱るはずではないのだが、それでも、もはや薬なしでは生活できないらしい。
なぜそんな風になるのかというと、70も過ぎると、どんな人間でもどこか悪いところが出てくるはずである。血圧が高いとか、糖尿の気があるとか、・・・うちの父親の例。でもって、医者がたとえば、高血圧の薬を飲ませようとする。「あんた、これ飲まんと倒れまっせ」なんてゆうて。大部分の医師は薬を出すのが仕事だから楽なもんである。
で、いったん、高血圧の薬を飲み始めると、老人のことだから、日に日に副作用が出てくる。たとえば、夜寝れなくなったりする。で、医者に行って「センセー、寝れまへんねん」なんていうと、また睡眠薬を出してくる。高血圧には降圧利尿剤が出るから、そのうち腎臓の機能が悪くなって、尿酸値があがってきて痛風除けの薬なんかも出される。睡眠薬は免疫性を下げるからまたどこか具合が悪くなってくる。次から次へと薬が出されて、1週間分で両手で受けていっぱいになるくらい薬を出され、いつのまにやら薬漬けとなる。診療を受けるほうも、年金生活のプー太郎でやることがないからか、せっせと医者に通って薬を嬉々として受け取っていたりもする。
日本の老人は、平均寿命はそこそこ高いくせに欧米や他のアジアの国々の老人と比べて寝たきりが多いらしいが、上記のような薬漬け治療が原因しているのではないかと思われてしかたがない。健保の財政悪化も、メタボ対策以前に薬依存の医療見直しのほうがずっと先じゃないのか。ワシ自身は老人になって薬を出されても捨てるつもり。薬を飲まないで死んでも、あんなふうに、格付もレーティングもない特権業者の医師に、こっちが医学薬学に無知なことをいいことにしこたま薬を飲まされるのはがまんがならない。とても、知的で自立した人間のされることではないと思うのだが。