千葉県立市川昴吹奏楽部顧問だったの個人ブログ

元千葉県立高等学校吹奏楽顧問

市川駅開業120周年 (2)

2014-07-23 11:16:18 | インポート

 市川駅120周年開業当時の記録がありました。

総武鉄道

市川駅開業に至るまでは、『安井理民』の働きが大きかったのです。

市川駅開業7年前の1887(明治20)年、佐原町の伊能権之丞他12人が発起人となり武総鉄道により、本所-市川-千葉-佐倉-成田-佐原のルートが計画されました。また時を同じくして成東町の安井理民他14人が発起人となった総州鉄道が、本所-市川-千葉-佐倉-八街-芝山-八日市場-銚子ルートを計画し、相次いで創立の申請を行ったのです。
赤線が武総鉄道ルートで、青線が総州鉄道ルートです。

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余談ながらここでピンとくる方もいるかも知れませんが、佐原町(現香取市)の伊能といえばあの日本地図を作成した伊能忠敬を思い出すかもしれません。事実伊能忠敬はこの佐原町の伊能家に婿養子に入り、当時の伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた名家だったのですから。
しかし、直接的な血縁関係を明記したものは無く、さらにある記述では“永沢治郎右ヱ門・伊能茂左ヱ門・伊能権之丞・伊能三郎右ヱ門(忠敬)”というように併記されているものがあるので、勝手に推測するなら本家と分家という関係かもしれませんね。

 

こうして申請された千葉県初の鉄道創立でしたが、時の千葉県知事は“千葉県は海、川に囲まれ水上交通が発達しているので鉄道は不要であろうとの見解を示し、更に利根川と江戸川を結ぶ利根運河が完成し一層便利になる”との意見を添え政府に提出し、鉄道建設は不可となるのです。鉄道の利便性が明らかな時期でありながら不許可となったのは、決して知事の嫌がらせではなく、従来からの水上交通の実績の評価が高く、かつ利根運河の開削も始まったばかりということから、千葉県が支援しているこの工事中の運河への影響を考えてのことだったのです。
当時の開削工事の模様です。

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《出典:利根運河の四季》
1888(明治21)年7月に第一工事区となった江戸川口で開削式が挙行され、千葉県知事や工事設計者のオランダ人技師ムルデルも開削式に出席していたそうです。

 

安井理民の思い

 

この直後から総州鉄道の安井は再願に向け精力的に活動を始めたのです。
まずは武総鉄道の伊能と協議し共同戦線を張ることで一致し、更に利根運河の大株主である池田栄亮を加えたのです。これは特に池田が県議会議長で知事との関係も深かったからなのです。
そして利根運河との競合を避け佐原や銚子には通さず、当初の総州鉄道の計画ルートであった本所-市川-千葉-佐倉-八街ルートをベースに再申請したのです。
この創立願書は未開であった八街方面に交通の便を開き、かつ国府台、習志野、佐倉の陸軍駐屯地を通過するという陸軍大臣への根回しとともに、軍事上も有益であるということから、1889(明治22)年12月に免許を得、翌明治23年1月に新会社「総武鉄道」が設立されたのです。
こちらも文字通り、上総国・下総国と武蔵国を結ぶことから“総武”と名づけられたのは言うまでもありません。

 

こうして安井、伊能が役員に名を連ねた総武鉄道はまず株式を発行し資金を募りました。当初は陸軍のバックがあるという噂から人気を博したのですが、時代の経済不況により株価は急落、これにより当時は資金の続く人間が会社の役員になれる時代だったため、資金難と内紛が続くこととなったのです。このなかで成東町で有数の資産家といわれた安井も私財を使い果たし、さらに病魔にも侵され役員を辞職したのです。
実際の用地買収や路線決定に苦労していたのですが、1892(明治25)年に政府が鉄道施設法を制定し、官営、民営にかかわらず国に必要な鉄道は国の責任で敷設するという内容で、その中にこの総武鉄道も含まれていたことから翌年の明治26年やっと工事が開始されたのでした。
江戸川で資材が運び易いとの理由から市川から工事が開始され、まず1894(明治27)年7月、市川-佐倉間が開通し、千葉県初の鉄道が完成したのです。
当時の総武鉄道の機関車です。
総武鉄道の機関車

駅は市川、船橋、千葉、佐倉の4駅で、1日5往復運行され、単線のため上下の列車は船橋で交換されました。市川から千葉まで50分、終点の佐倉までは1時間30分かかったようです。現在の総武線快速では市川-千葉間が22分ですから、総武鉄道の場合は結構時間がかかっていたのです。
市川から先は両国まで乗合馬車が1日7回走っていたのですが、江戸川に橋が無かったことから船で川を越えるため非常に不便でしたが、見物人も含めてかなり盛況だったのです。
こうして開業した総武鉄道ですが、同年の僅か半年前ほどの2月に安井は36歳の生涯を閉じていて、この開通を見るとが出来なかったのです。

 

幸か不幸か開業の10日後、日清戦争が勃発し兵の輸送に臨時列車が多発され、鉄道が軍事上重要であることが認識されたのです。9月27日には上り列車を全てストップさせ、佐倉旅団が出発しました。
この時点で総武鉄道は孤立した路線であり、東京とも接続されていないことから乗り換えも不便でした。これを解消すべく、新たに小岩-上野間を路線計画に追加し免許も得たのですが、やはり民家の密集地帯のこの地区を通過することは困難であることから、変わりに支線として市川から本所(現在の錦糸町)への建設を先に進めることとなったのです。
この本所駅は津軽藩屋敷跡を利用したのですが、当時はまだ荒川が無く一体が低湿地であったため、今で言う液状化状態だったため「お化け丁場」と言われたのだそうですが、明治27年12月、本所-市川が開通し、幕張と四街道の両駅も開設されたことから、総武鉄道は本所-市川-船橋-幕張-千葉-四街道-佐倉と延伸したのです。因みに開通したばかりの総武鉄道に乗った正岡子規が佐倉まで旅をし、各地で句を残しているそうです。
それは「獺祭書屋俳話」で明治35年に発行されたものです。

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鉄道は風雅の敵であるけれども、新しい発想の源になるかもしれないと言っており、鉄道に魅力を感じたということなのでしょう。