75年前の今日、昭和20年(1945年)8月6日、午前8時15分、広島に原爆を落とされた。エノラ・ゲイ(B29)から落とされたリトル・ボーイ(原爆)は、現在の原爆ドームの上空、約600メートル地点で爆発し、半径2キロの建物をすべて破壊し、14万人の罪もない人たちを焼き殺した。そして、その後の放射能被害による死者も入れると、20万人以上の人たちが殺された。たった1発の爆弾が、20万人以上の人たちの命を奪ったのだ。
そして、3日後の8月9日、午前11時2分、今度は長崎に原爆を落とされた。ボックス・カー(B29)から落とされたファット・マン(原爆)は、広島に落とされたウラン爆弾よりも強力なプルトニウム爆弾だった。しかし、平地だった広島と違って、谷になっている長崎は、地形的に爆風が広範囲には広がらなかった。それでも、7万人もの人たちが殺され、その後の死者も入れると、15万人もの人たちが殺されたのだ。もしも、長崎が広島と同じような平地だったら、この4倍から5倍の人が殺されていたと言われている。
そして、3日後の8月9日、午前11時2分、今度は長崎に原爆を落とされた。ボックス・カー(B29)から落とされたファット・マン(原爆)は、広島に落とされたウラン爆弾よりも強力なプルトニウム爆弾だった。しかし、平地だった広島と違って、谷になっている長崎は、地形的に爆風が広範囲には広がらなかった。それでも、7万人もの人たちが殺され、その後の死者も入れると、15万人もの人たちが殺されたのだ。もしも、長崎が広島と同じような平地だったら、この4倍から5倍の人が殺されていたと言われている。
「松尾あつゆき」という俳人で、明治37年(1904年)に、長崎県北松浦郡に生まれた。地元の高校を卒業後、商業学校の教員になり、その数年後、自由律俳句の大家、荻原井泉水(せいせんすい)を師事して、自由律俳句にのめり込む。種田山頭火や尾崎放哉は先輩で、山頭火が長崎を訪れた時には、あつゆきが長崎を案内をしている。その後、あつゆきは結婚して、4人の子どもに恵まれて幸せに暮らしていたんだけど、戦争が始まったため、教員を辞めて、長崎の食料営団に勤務するようになる。そして、昭和20年8月9日を迎えた‥‥。
「原爆句抄」 松尾あつゆき
八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。
「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」
十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」
「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」
「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」
長男ついに壕中に死す(中学一年)。
「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」
「母のそばまではうでてわろうてこときれて」
「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」
「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」
十一日 みずから木を組みて子を焼く。
「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」
「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」
十二日 早暁骨を拾う。
「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」
「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」
十三日 妻死す(三十六歳)。
「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」
十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。
「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」
「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」
「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」
‥‥この作品を読んで、涙しない者はいないだろう。お母さんは、自分も全身が焼けただれていて重症なのに、死にかけている我が子の口に、木の枝をくわえさせて、「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられない‥‥。そして、先に逝った4歳と1歳の子のあとに、中学1年の長男が、お堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのだ。
その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、瓦礫の中で3人の我が子を焼いた。「とんぼう」というのは「トンボ」のことなんだけど、3人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのだ。だって、それまでは、ハエばかりがたかってたんだから‥‥。昨日まで元気だった自分の子供たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸にハエがたかっているなんて、親として耐えられるだろうか。
だからこそ、この1匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったんだと思う。そして、次の日の朝早く、子供たちの骨を拾った。たった7ヶ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるだろうか。
これだけでも、あたしだったら、発狂しそうなほどの苦しみなのに、次の日には、奥さんが亡くなった。そして、その奥さんを焼いた日に、戦争が終わった。「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」‥‥なんという悲しみだろう。なんという苦しみだろう。これが、戦争なんだ。これが、未だに、世界のあちこちで繰り広げられてる戦争なんだ。これは、たった1人の松尾あつゆきという俳人の話であって、これと同じ思いをした人が、何万人も、何十万人もいたのだ。たった1発の原爆のせいで‥‥。
世界唯一の戦争被爆国に生まれたあたしたちには、この悲劇を二度と繰り返してはならないという重い責任がある。もちろん、日本国内だけの話ではなく、世界のすべての国でだ。そして、そのためには、まずは過去の悲劇を正確に知り、その悲惨さを実感する必要がある。そのために、あたしは、毎年この日に、この松尾あつゆきの「原爆句抄」を紹介している。
「原爆句抄」 松尾あつゆき
八月九日 長崎の原子爆弾の日。
我家に帰り着きたるは深更なり。
「月の下ひっそり倒れかさなっている下か」
十日 路傍に妻とニ児を発見す。
重傷の妻より子の最後をきく(四歳と一歳)。
「わらうことをおぼえちぶさにいまわもほほえみ」
「すべなし地に置けば子にむらがる蝿」
「臨終木の枝を口にうまかとばいさとうきびばい」
長男ついに壕中に死す(中学一年)。
「炎天、子のいまわの水をさがしにゆく」
「母のそばまではうでてわろうてこときれて」
「この世の一夜を母のそばに月がさしてる顔」
「外には二つ、壕の中にも月さしてくるなきがら」
十一日 みずから木を組みて子を焼く。
「とんぼうとまらせて三つのなきがらがきょうだい」
「ほのお、兄をなかによりそうて火になる」
十二日 早暁骨を拾う。
「あさぎり、兄弟よりそうた形の骨で」
「あわれ七ヶ月の命の花びらのような骨かな」
十三日 妻死す(三十六歳)。
「ふところにしてトマト一つはヒロちゃんへこときれる」
十五日 妻を焼く、終戦の詔下る。
「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」
「夏草身をおこしては妻をやく火を継ぐ」
「降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾りつ」
‥‥この作品を読んで、涙しない者はいないだろう。お母さんは、自分も全身が焼けただれていて重症なのに、死にかけている我が子の口に、木の枝をくわえさせて、「うまかとばい」「さとうきびばい」だなんて、あたしは、この悲しみと苦しみの中でのお母さんの思いが、胸に痛すぎて耐えられない‥‥。そして、先に逝った4歳と1歳の子のあとに、中学1年の長男が、お堀の中から這い出して来て、倒れているお母さんのところまで必死に這って来て、ニコッと笑ったまま、こときれたのだ。
その翌日、松尾あつゆきは、拾い集めて来た木を組んで、瓦礫の中で3人の我が子を焼いた。「とんぼう」というのは「トンボ」のことなんだけど、3人の我が子の亡骸(なきがら)に、焼く前にトンボがとまったことが、せめてもの慰めだったのだ。だって、それまでは、ハエばかりがたかってたんだから‥‥。昨日まで元気だった自分の子供たちが、次の日には焼けただれて死に、その亡骸にハエがたかっているなんて、親として耐えられるだろうか。
だからこそ、この1匹のトンボがとまってくれたことが、助けてやれなかった自分自身の気持ちに対する慰めでもあったんだと思う。そして、次の日の朝早く、子供たちの骨を拾った。たった7ヶ月で死んで行った我が子の、小さな小さな骨を「命の花びらのような」だなんて、これほどの悲しみがあるだろうか。
これだけでも、あたしだったら、発狂しそうなほどの苦しみなのに、次の日には、奥さんが亡くなった。そして、その奥さんを焼いた日に、戦争が終わった。「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」‥‥なんという悲しみだろう。なんという苦しみだろう。これが、戦争なんだ。これが、未だに、世界のあちこちで繰り広げられてる戦争なんだ。これは、たった1人の松尾あつゆきという俳人の話であって、これと同じ思いをした人が、何万人も、何十万人もいたのだ。たった1発の原爆のせいで‥‥。
世界唯一の戦争被爆国に生まれたあたしたちには、この悲劇を二度と繰り返してはならないという重い責任がある。もちろん、日本国内だけの話ではなく、世界のすべての国でだ。そして、そのためには、まずは過去の悲劇を正確に知り、その悲惨さを実感する必要がある。そのために、あたしは、毎年この日に、この松尾あつゆきの「原爆句抄」を紹介している。