これが私の生きる道

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事実と真実の間の隔たり

2012年07月17日 18時13分55秒 | 思うこと
この前、「ほこ×たて」でショ(よ)ベルカーが出ていて
ずーっと、シャ(や)ベルカーと思っていたので
結構びっくりしました。
台風一家(正しくは一過)など生まれてから思い込んでいたものは案外多いもので
その中の一つに「事実」と「真実」というものがあります。

今までこの二語を使い分けて考えていたことはなかったのですが
心霊体験をした人の話を聞いている内に
この二語は違うことを示しているんじゃないかと思うことがありました。
心霊体験をしている人ってその本人的には本当に見えているのは否定しません。
でもそれは実際はその人の脳内で感じているだけの話で
本当にいるかどうかと直結していないと考えるのが自然だと思います。

なのでその人にとって幽霊が見えたのは「真実」だけど
幽霊なんかいないのが「事実」だという説明が一番理に適っているような感じがします。
もう一つ例をあげると、女性が満員電車で立っていて
お尻を触られたとします。
そしてその触られた場所を確認すると、
同性の手が当たっていただけだったので
そのまま乗車を続けたとします。

でもこれが男性の手だったら故意的ではないとしても
ほとんど女性は不快に感じるわけです。
よく考えるとこれっておかしな話で
お尻に手が当たっている「事実」は同じなのに
それを不快に感じるか感じないか
その手の持ち主によって左右されてしまうのです。
(別に痴漢を擁護しているわけではありません)

更にいうとその手の持ち主が自分が好きなタレントに似ていたりしたら
逆に快に感じる人も少なくないでしょう(自分は女性でないのであくまで想像です)
事実に対して、その人が感じる真実は色々変わってくるわけです。

辞書で調べても、事実は「実際にあった事柄で、
誰も否定できないこと」という意味が書かれていますが
真実には「偽ったり、飾ったりした所のない本当のこと」というように
だいぶ違ったニュアンスになっています。
「真実」については本来の使い方と違うかもしれませんが
個人的には、自分が実際に感じたこと(主観的なこと)に限定させて使うと
世の中の混沌が少し開ける気になります。

自分の中の「真実」を「事実」として他人に押し付けようとすることで
摩擦を生じることがよくあります。
先ほどの心霊体験もそうだし
自分が好きな歌があって
それを「いい歌」というのも実際は間違っているような気がします。
(そもそも「いい歌」「悪い歌」の区別もよく分かりませんが)
やはりそれは「好きな歌」というべきところでしょう。

一つの事柄を通して十人いれば十人分の「真実」があって
それを「正しい」「間違っている」という権利は
本当はないんでしょうね。
かといってそれがなくなったら
今、交わしている会話の半分以上は必要がないものになってしまうから
(それだけ人への評価に対しての会話が多いという皮肉を含まれています)
なくならないでしょうけども。

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