矢嶋武弘・Takehiroの部屋

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奇跡の人・伊能忠敬とシュリーマン

2024年12月07日 13時29分54秒 | 歴史

<2002年2月22日に書いた以下の記事を復刻します。>

1) 江戸時代の末期、日本の地図を作製した伊能忠敬は、あまりにも有名である。 最近では、「伊能ウォーク」という全国行脚の催しも行われている。 伊能忠敬がなぜ人気を集めているかと言えば、50歳を過ぎてから一念発起して勉学を始め、55歳から日本全国を歩き回って、精密な地図を完成させた所にある。当時は「人生50年」の時代だったから、55歳というのは正に高年齢ということになる。 これは、我々日本人を大いに勇気づけるものだ。

 忠敬の壮挙については、数々の伝記が著されているので、ここで詳しく述べることは控えるが、日本人、特に我々年配者にとっては仰ぐべき存在であると言ってよい。 忠敬のことを思い出している時、私がいつも連想するのは、ハインリッヒ・シュリーマンというドイツ人のことである。 ご存知の方も多いと思うが、19世紀の後半にトロヤ、ミケーネなどの古代遺跡を発掘した人である。

 シュリーマンも44歳から考古学を学び、49歳からトロヤの発掘に乗り出した。中年を過ぎてからの出発である。 それから約20年、68歳で死去するまで発掘を続け、当時は単に「伝承」として片付けられていた数々の遺跡を発見し、ヨーロッパ世界を驚倒させた。 これも「古代への情熱」という自伝に詳しく書かれているので、内容は省略する。

2) 忠敬とシュリーマンに共通するのは、いずれも相当の年齢に達してからの壮挙であり、こうした点が我々を感動させ、勇気づけてくれるのである。 その位いの年齢に達すれば、普通は“楽隠居”するものだが、二人の人生はそれを許さなかった。 双方とも莫大な私費を投入し、一方は「測量」に命をかけ、他方は「発掘」に命を燃やした。 二人に共通するのは、夢と情熱だったのではなかろうか。

 ただし、二人に共通しない点もある。 忠敬の場合は、若い頃には日本全図を作製しようという夢はなかった。もともとは暦学(天文学)に関心があり、子午線1度の問題を解決するために測量を始めたもので、それが蝦夷地や奥州の地図作製につながっていった。 しかし、それが江戸幕府の認めるところとなり、日本全図の作製へと大きく飛躍していったのである。その飛躍のうちに、忠敬の胸中には、日本全図の完成という壮挙が夢となって、やがて現実化していったのだろう。

 一方、シュリーマンの場合は、幼少時からホメロスの物語を聞き、それに憧れを抱いていた。 そして、7歳のクリスマスの時に、父親から贈られた一冊の本が生涯を決定づけることになる。 自伝によると、「子供のための世界の歴史」と題する本には、色刷りで燃え上がるトロヤと、逃げまどう人々が描かれていた。瞬時にして、少年は『これは真実だ』と悟った。父親に聞くと「いや、それは想像図だ」と言う。しかし、少年は「これは、作者がトロヤを見て描いたものだ」と言って、譲らない。 父親との論争がいつまで経っても決着しないため、結局、少年はいつの日か、トロヤを発掘するということでケリがついた。(小学館発行 池内紀氏訳「古代への情熱」を参照)

 その時から、少年シュリーマンは、ホメロスの語る「古代の世界」を真実と確信し、いつの日か必ずトロヤを発掘しようという夢を持った。 その夢が42年後に本当に実現し、ヒッサリクの丘を発掘すると、トロヤの遺跡が眼前に現れたのである。 その自伝物語を読む時、私はいつも深い感動に襲われる。 後にシュリーマンは語る。「ホメロスの言ったことで、何一つウソはなかった」と。

3) 忠敬とシュリーマンは、前半生が実によく似通っている。 忠敬は1745年、今の千葉県・九十九里浜の網元の家に生まれたが、17歳の時、縁あって佐原の伊能家に養子として入る。 伊能家は酒造業などを営む名主の家柄であったが、当時は家運が傾き苦しい状況にあった。 この伊能家を、婿になった忠敬が全力を振り絞って再興し、家業を盛り立てていった。 その辺の忠敬の功績は、幾多の伝記に詳しく書かれているので省略するが、要は、忠敬が前半生で、自分の仕事を立派にやり遂げ、相当の財産を築いたのである。

 一方、シュリーマンは1822年、北ドイツの貧しい牧師の家に生まれ、ろくな教育も受けられないまま、14歳の時から雑貨店で働くようになった。 自伝によれば、5年半の間、彼は朝5時から夜11時まで働きづめだったという。

 その後も、帆船の給仕をするなど辛酸をなめたが、やがて幸運が訪れ、22歳の時、オランダの商社に就職することができた。それからというもの、シュリーマンは仕事に全力を傾け、ロシアを中心にして莫大な利益を上げていく。 そして40歳頃には、すでに大実業家として成功を納め、商売から身を引いて、宿願であるトロヤ発掘への準備に入っていくことになる。

4) 後顧の憂いがなくなった忠敬は、49歳の時、家督を長男に譲り隠居した。 彼は国内旅行を楽しんだ後の翌年、江戸に出て幕府天文方の高橋至時に弟子入りする。そこから、暦学に対する忠敬の猛勉強が始まる。正に50歳からのスタートであった。

 一方、シュリーマンは世界旅行を楽しんだ後、44歳の時にパリに出て、そこで本格的に考古学の勉強を始める。 ところで、シュリーマンの世界旅行は、半端なものではなかった。ヨーロッパから中東、アフリカ、エジプトを経てインドに入り、ヒマラヤ山脈等も訪れた後、中国と日本にもやって来た。 シュリーマンと日本の接点があったことは喜ばしいので、少し紹介したい。

 日本には1865年(慶応元年)6月、汽船で横浜に着いた。 当時の日本は、風雲急を告げる幕末の動乱期であった。この時シュリーマンは、14代将軍・徳川家茂が、長州征伐のため大軍勢を引き連れて西下するのを、目の当たりにして克明なメモを残している。 この後、「絹の町」八王子を訪れたり、浅草など江戸の街を充分に探訪、離日する前には「日本文明論」なるものを綴ったということである。 いずれにしろ、シュリーマンは2年後、「中国と日本」と題する最初の著作を発行している。 最も重要なトロヤ発掘を前にして、日本などの探訪記を著すとは、シュリーマンがいかに好奇心旺盛だったかを物語るものである。

5) 忠敬とシュリーマンは、それぞれ暦学と考古学を修めた後、いよいよ測量と発掘の人生に入る。 忠敬は55歳から16年かけて日本全国を測量し、日本全図の原形を作製した。その営々たる努力は忠敬の肉体を消耗させ、晩年歯がボロボロになるまで続いた。 日本全図の作製から2年後に彼は他界するが、その遺志は弟子達に受け継がれ、忠敬の死後3年にして、「大日本沿海與地全図」として完成する。 時に1821年(文政4年)のことであった。

 忠敬が作製した日本全図は極めて精密なもので、幕末に日本を訪れた欧米の列強を驚嘆させたといわれる。また、彼の測量で明らかになった子午線1度の長さ・28、2里(110、75キロ)も、極めて正確なものだったことが後に判明した。 このように忠敬の業績は、日本の地理学等に多大の貢献をするわけだが、今や彼の壮挙はほとんどの日本人に分かっていることなので、これ以上の記述は差し控えたい。

 一方、シュリーマンの方は、1868年にイタカ島を発掘した後、1871年10月から宿願のトロヤ発掘に乗り出した。 ヒッサリクの丘に立った時、彼の感慨はどのようなものだったろうか。 自伝によれば、10年間ものトロヤ戦争を伝える古代ギリシャの伝承が真実であり、ホメロスはその事を忠実に語っており、その動かしがたい証拠を廃虚の中から発見するというものだった。

 シュリーマンは大勢の作業員を動員して、丘を掘って、掘って、掘りまくった。土砂崩れが起きて作業員が埋もれたりするなど、幾多の危険に遭遇したが、ついに火災で焼け落ちたトロヤの城壁を発見するに至る。 その時のシュリーマンの感動、興奮は、言葉では表現することができない。 7歳の時から夢見たことが、42年の歳月を経てついに現実のものとなったのである。

 シュリーマンのトロヤ発掘は3度におよび、さらに彼はギリシャに渡ってミケーネなどの発掘も手がけ、古代文明の発見と解明に巨大な足跡を残した。それは、あらゆる労苦を惜しまない、彼の不屈の意志がもたらしたものである。 まったくの伝承、作り話と片付けられていた事が真実と分かり、多くの人は驚嘆した。 シュリーマン以後、古代遺跡の解明は大きく前進したのである。

6) 忠敬とシュリーマンが行ったことは、本人にしてみれば当たり前のことだったかもしれない。 しかし、私から見れば“奇跡”としか言いようがない。 よくぞ一人の人間が、かくも偉大な足跡を残したものだと感銘を受けるのだ。多くの人が、そう感じるのではないかと思う。

 忠敬もシュリーマンも、性格は真面目であり、また二人とも向学心に燃える人だった。 特に大きな共通点は、学問と真実に対する熱意である。それはお互いに年配に達しても、まったく変わらなかった。その点は、本当に敬服せざるをえない。

 忠敬が、幼少の時から数学を好んだことはよく知られているが、シュリーマンの語学に対する熱意と才能は尋常ではない。 彼は十数カ国語を自由に話し、書くことができたという。正に語学の「天才」である。

 自伝によれば、シュリーマンの語学への取り組みは凄まじいものがある。熱意がひしひしと伝わってくるのだ。 前述したように、ろくな教育も受けていなかったので、まず記憶力を鍛練するために、英語であろうとフランス語であろうと、小説や短文を片っ端から暗記していくのである。そうしている内に、記憶力が飛躍的に強化されて、他の外国語も全て、半年以内に完全に覚えてしまうというものだ。

 これは恐るべきことで、普通の人ではとても真似することは出来ないだろう。 その熱意と、記憶力と集中力には唖然とするものがある。これは、やはり語学の「天才」と言うしかない。

 話がシュリーマンの異常な才能に移ってしまったが、伊能忠敬を思う時、私はどうしてもハインリッヒ・シュリーマンを連想してしまうのだ。 個人の才能や幸運はあったとしても、いかなる困難にも屈しない二人の希有な精神力は、特筆すべきものがある。 忠敬は日本人の誇りであり、シュリーマンはドイツ人の誇りだと思う。 それは特に、二人の生き方にあると思えてならない。(2002年2月22日)


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4 コメント

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すごい! (madonna)
2012-03-27 18:04:33
すごいですね、忠敬とシュリーマン。忠敬のことは大体知っていましたが、あらためて知るとその能力と努力には驚くばかりです。人生50年の時代に50歳からの勉強とは、もうたそがれている自分が情けなくなります。
ヨーシ、私も一念発起、ガンバロウ!
返信する
忠敬とシュリーマン (矢嶋武弘)
2012-03-27 18:21:00
以前、伊能忠敬が住んでいた佐原へ行ってお参りをしてきました。とにかく素晴らしい人ですね。見習いたいと思いましたが、私にはとても無理です(笑)。
シュリーマンも凄い人ですね。7歳の時の夢を実現させるとは、人生ロマンそのものです。お互いに頑張りましょう!

ところで、facebookで池田桂子さんを捜したのですが、何人もいて間違えたら良くないと自重しています。もし良かったら、ヒントを教えてください。まだ慣れていませんが。
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申し訳ありません (madonnna)
2012-03-27 18:48:04
すみません。
前回、紛らわしい書き方をしましたが、私はGooでは友人たちのブログへコメントを書いているだけです。お手数をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。
返信する
了解しました。 (矢嶋武弘)
2012-03-27 18:51:55
マドンナさん、了解しました。
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