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趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kenny歴史探訪:駆逐艦 春雨の座礁、遭難

2018-06-01 20:50:49 | 

     駆逐艦 春雨 菅崎付近で座礁 
   鳥羽市相差(おうさつ) 志摩市安乗(あのり)の村人
       この戦争悲話、写真仲間との旅で知りました

戦争悲話、こんなお話です
明治44年11月24日、
午前0時の出来事です。駆逐艦春雨
鳥羽市近郊を航行中に嵐に遭った。そこで的矢湾(まとやわん)
避難の途中菅崎付近で座礁して、乗員64名中44名が亡くなる
大惨事となった。
     


                          高台の菅崎園地から撮影

翌朝、長岡村相差と安乗村の村民が総出でまだ荒れる海の中、救出
した
瀕死者を女性が交替しながら体温で暖め蘇生させるなどの必死
の努力がなされたとの事です。

それはまだ薄暗い早朝、浜に向かっていた住民が、倒れて途切れと
ぎれながらも助けを求める半裸の少年を見つけて知った大惨事です。

       

                  上下、Yahoo地図に筆者加筆

       


                       的矢湾  菅崎園地からの撮影 

この海面に出ている岩また岩。艦船は太平洋(左)から的矢湾へ向かう。
しかしこの地一帯はリアス式海岸でもあり座礁はこの海域の特徴からか?


                     眺望のよい高台の公園に建てられた記念碑

後に、殉職した乗組員の霊を供養するため記念碑が建てられ、眺望の
よい菅崎園地、
公園として整備された。


                                                殉難記念碑

碑の文面は慰霊碑ではなく殉難記念碑となっており、殉難者の慰霊と
救助に当たった村人の献身的な努力を称えるという2つの意味を持っ
ていると思われる。



毎年11月24日に慰霊行事が行われ、この「春雨艦遭難和讃」の
ご詠歌が唱えられます

 実は・・・
その日、同時に航行の僚艦「磯波」「綾瀬」は沖合で嵐をしのぎ
翌朝、岸近くに目にしたものは春雨の煙突4本のみと記録は伝え
ているそうです。

嵐がその度を増してきた時、司令官、大瀧道助中佐は編隊を解いて
各艦船に自由行動を命じた。春雨は的矢湾に避難を、がこの結末に
なったのです。こんな時・・・、この判断、 是非の思案にも及ばず
でしょうな。(宮仕えの身であった者の独り言)

ところで、駆逐艦春雨は
この春雨は初代の艦船で、昭和になって二代目が建造されています。


                          遭難の初代春雨
                                         
      (現地案内板の写真より部分引用)
    
                     
                         (参考)二代目春雨
                       
 (ウィキペデアより拝借)   

これらの情報源:
現地案内板をカメラに収め、また鳥羽市観光情報サイトを参考に、
勝手ながら私の言葉で記載させて頂きました。

1)現地の案内板 




2)鳥羽市観光情報サイト 


   HP:鳥羽市観光情報サイト


さて、友との鳥羽、賢島の旅
その時の旅は写真仲間の撮影旅行でした。私の記録、記憶に、悲話の記事
の後、ちょっとはばかりながらも旅のビデオ映像を残しておきたく。

                     

                      画面中央のをクリックしてください (3分20秒)


  
                  今日もご覧くださいましてありがとうございました

                                         (6月4日、2018 UP)


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Kennyのカメラを提げて:木曽路・後半

2016-11-29 08:01:00 | 

   近江の紅葉はまだ来ない
             ひと月遅れのリポートです m(_ _)m

       と なりゃ、標高1000mの高地
               木曽路へ
       第二弾、山吹山・巴淵、水木沢天然林
         この日記の掲載期間:12月9日~12月16


巴淵・山吹山
木曽川が山吹山の麓でつくる淵。義仲挙兵後も常に従った巴御前
にちなんでおり、この淵に凄む竜神が巴に化身して義仲を守った
という伝承もあります。(ここまでは冊子「いい日々、木曽町」より引用)
清流と紅葉の名所です。 写真右端に山吹山からトンネルを抜けて
JR中央線の鉄橋が見えています。


                                           撮影:11月5日、2016  以後同じ


                                    私達の他にも沢山のカメラ愛好家が


                                     巴淵 水木沢天然林の位置



            







木曽といえば、木曽義仲が後白河法皇の皇子より平家追討の命を受
けこの地で旗揚げをしたんですね。 義仲は滋賀県に縁があります。
数々の戦功の後に後白河法皇の策略で、粟津ヶ原(大津市粟津)で討
死しています。 大津市膳所の義仲寺に巴御前と共にお墓があります。




水木沢天然林





                                      この沢のメイン    巨大ヒノキ




          残念、水平に何層も映える紅葉ですが写真にその色彩が出ません。 光が強すぎるのか?




                                           ホウ葉のようです


                                    
       本当はもっと美しい紅葉でした




       

                  この景色、雰囲気 そしてフィトンチッドに癒されながら歩いている
                               やっぱり
いいな~、今が

道すがら、車窓から

                       
 桃介橋 (ももすけばし)

電力王・福沢桃介が水力発電開発の為に架けた全長247メートルの
木製の吊橋です。平成5年に復元され平成6年近代化遺産に指定さ
れています。(ジャランネットより)





                        木曽福島


                        お昼はこの有名店の蕎麦屋で


                    町の高台から山を眺めるとこの美しさ


                                                 帰路、恵那山


             二週にわたりご覧くださいましてありがとうございました

                ・・・・・・・・・

         今日の三上山から (12月10日)

   
                           登山道脇にポイ、燃料の上に!  

            すんません、あなた!
               こんなん、本当に
                        次回の登山から

      止めて頂けるとありがたいんですが


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Kennyのカメラを提げて:木曽路・前半

2016-11-29 08:00:17 | 

    近江の紅葉は近年11月後半
          ならば標高1000m超の
                 木曽路へ
            開田高原、木曽駒高原
          (この日記の掲載期間:12月2日~12月8日)


                     予想通りの紅葉真っ盛りでした  (11月4日、木曽駒高原で撮影)

開田高原
初日、先ずは木曽福島から361号線を岐阜県高山市方向に車を走ら
せて
開田高原に向います。


                  御嶽山を眺める絶好の開田高原の広場

毎冬通っている木曽福島スキー場すぐの新地蔵トンネルを抜けると
そこは開田高原の入り口です。 白樺の木が目に飛び込んできます。



       

暫し車を止めての撮影を終えて、高原の景色を満喫しながら先に進
みます。 今日は雲ひとつない好天気に恵まれました。ところが撮影
には太陽の光が強くちょっと難儀しますが、やっぱり高原や山は快晴
がいいです!



                                     先述の広場からの御嶽山です


木曽馬が飼育されています




木曽馬とは長野県木曽地域を中心に飼育されている日本在来種の
である。岐阜県飛騨地方でも飼育されている。 日本在来種は他
に北海道和種、野間馬、対州馬、御崎馬、トカラ馬、宮古馬、与那国
馬がいるが、本州の在来種は木曽馬のみである 
(ウィキペディア)


                                                 幸せ、綺麗な厩舎です

入場無料、乗馬(有料)が体験出きます

           


      
                   この実なんの実?  ナナカマドではないと友が・・・


                                帰り道を変えて、再度御嶽山を眺めます

開田高原
長野県西部に位置し、岐阜県に接する。村西部は西にそびえる御嶽山
の裾野からなり、北部・東部は飛騨山脈南端の山々が連なる。ほぼ全
域が標高1,000m以上の高地にあるため、その気候は一年を通して
非常に冷涼である。真夏でも30℃を超えることはほとんどなく、真冬に
はマイナス20℃以下になる日が年に何度もある。御嶽山の裾野を中
とした区域は「開田高原」と呼ばれ観光地化されている。古くから
曽馬
の主産地であった。 (ウィキペディア)


今回訪ねた開田高原・木曽駒高原巴淵・水木沢天然林の位置
                    (ブログの前半)         (ブログの後半:次週)

              地元の冊子 「いい日々、木曽町」 から拝借    赤い印はKennyの追記


木曽駒高原







        
                                 TOPの一枚はこの公園で撮りました

翌朝、写真は早朝が勝負と薄暗い時間から
今回の宿、木曽駒高原にある丸中山荘から歩いて散策と撮影です。
とっても寒いです。 草木は霜に覆われています。 



                             太陽が昇ってきます  空は茜色に、山はモルゲンロート


こんな時って嬉しいですね、この散歩道から見えます~



                                                   御嶽山


                                                     乗鞍岳


                             穂高 前穂高岳(右)、奥穂高岳(左) その間に吊り尾根が


                                              寒いです しっかりと霜が


                           暫し敵かどうか様子見の後、ひたすら朝食に集中


             私達が朝食を終えた頃にはすっかりと日が昇っていました
                        上下の景色 宿 丸中山荘 の近くから


木曽駒高原
標高1000m
の高原です。木曽駒ケ岳の北山麓に広がり、御嶽山や木曽駒ケ
岳の展望がよい別荘地でもあります。今回宿泊の丸中山荘はこの高原の中に
あり、早朝の撮影には持ってこいの立地。御嶽山は勿論、乗鞍岳、穂高連峰
その山頂部がモルゲンロートで輝いていました。

道中、車窓から
せっかくの長旅です。 車窓からの景色も見逃すわけにはいきません。


                               JR醒ヶ井、、柏原駅付近から見た伊吹山



                              大垣を過ぎた頃かな、おーっ、山が真っ二つに・・・


                                   木曽福島に近づくと乗鞍岳が


                                  帰路、もう日が沈む時間、岐阜城が


            次週は後半、巴淵、水木沢天然林の風景をお届けします。
    またお立ち寄りいただければ幸いです。 ありがとうございました。

          

                ・・・・・・・・・・・

              番外です:今日の三上山山頂から
                                          2016年12月2日

                                  滋賀県もすっかり紅葉しました
                                      希望ヶ丘文化公園




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Kennyの島歩き:対馬ーその2

2015-11-24 07:45:41 | 

         対馬:日記 その2 歴史編
  
     
              白村江の戦い:金田城
                            元寇の役:小茂田浜神社
              対馬藩主宋家:万松院
                                    金石城跡     
            
                            江戸・朝鮮外交: 雨森芳洲
                                       日露戦争
                                         豊砲台
                                   

                              しいたけが日本一だそうです
                    (この日記の掲載期間:12月4日~12月10日)

舞台が変われば、各時代のこんな歴史に出会える!
60歳半ばでの手習い、近江の歴史、郷土史で精一杯。殆ど県外からは出て
いない私、この対馬の旅で、あたりまえの事に気が付いた次第です。

例えば、元寇、対馬はその舞台だったんですね。 一方、 近江は戦国時代の
主舞台。そんなことで各時代の、夫々の出来事を考える充実の旅だったな~


   
       地元で入手のパンフレットのひとつ  この建物は万松院(対馬藩主宋家の菩提寺)
     (対馬観光物産協会発行)

                          


金田城跡 (マップ No.2) : 白村江の戦い 要登山、他の理由で辿り着けず(一人ならね・・・)
(かなたのき)                                               


 
   
                               金田城跡 (パンフレットから拝借)

667年に築城の古代山城。白村江(はくすきのえ・はくそんこう)で敗戦した
日本は唐と新羅の来襲を恐れ、対馬に国防の朝鮮式山城を築きました。 
石塁は1300年以上も前の遺構。

対馬が直接の戦場になったのではないのです。 実は、滅ぼされた百済再
(当時日本と同盟関係)のために大和朝廷が送った援軍も白村江で大敗し
てしまい、撤退を余儀なくされた朝廷は防衛のために対馬にのろし台や
防人(さきもり)を配置、
戦後の緊張状態に巻き込まれました。 国境の
島所以のお話です。 

余談ながら、
大和朝廷・百済軍の敗戦後多数の百済人が渡来しました。その中の一人、
鬼室集斯(きしつ しゅうし)大和朝廷に乞われ学識を生かしています。
滋賀県日野町の室神社にお墓があります。ところで野洲市にもお墓(址)
があるんですよ。 
                  野洲市の「鬼室集斯」についての私の過去のブログ
                        ↑   この上をクリックしてください

元寇の役: 小茂田浜神社(マップ No.8)  ここもパスしました (_ _);;

      
                                椎根集落の観光案内看板から

鎌倉時代の日本は、2度にわたる元(モンゴル帝国)
とその属国高麗による侵略
(元寇)を受けています。対馬はその最初の攻撃目標となり受難を蒙っています。
文永11年(1274)、4万の兵は艦船900隻に分乗し佐須浦・小茂田浜に殺到した、
なんて、初めて知りました。 そうか、そういえば通り道(海路)ですわな。

この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い果敢に迎撃したが、圧倒的な
兵力差により勇戦及ばず全員玉砕した。この受難を小茂田浜神社で伝えられて
います。

元寇日本は神風で侵略を免れたと言われているが、対馬ではこんな犠牲が
あったんですね。


万松院: 対馬藩主宋家墓所(マップ No.1)
(ばんしょういん)


                                             万松院  対馬藩主 宋家の菩提寺

12世紀頃に対馬国の在庁官人として台頭し始め、現地最大の勢力阿比留氏を滅
ぼし、
対馬国全土を手中に収める。 一方朝鮮との友好関係、貿易などで望まない
戦にも駆りだされ
る地理的関係、運命にあった。 秀吉の朝鮮侵略はその好例。

宋家は鎌倉時代から江戸時代まで対馬
を支配した。


                  万松院の百雁木   御霊屋(おたまや)へ続く 百段の雁木(石段の意味)


金石城跡:宋家居城(マップ No.1)
(かねいしじょう)



1669年、対馬藩三代藩主・宋 義真がそれまでの金石屋形を拡張・城郭整備を行い
金石城と呼ばれるようになった。

 
                                                      金石城庭園


写真仲間へ:上の写真(万松院、金石城跡)失敗です。前日設定のISOの戻し忘れです。(汗);
           

江戸・朝鮮外交: 雨森芳洲 (マップ No.10)、朝鮮通信史 (No.1)


                                     雨森芳洲の墓  (対馬 日吉)

22歳で木下塾の推挙で対馬藩に仕え、以後88歳の人生を全うするまで対馬に
居を構えます。 朝鮮方佐役として江戸・朝鮮の外交を勤め、朝鮮通信史の護行
も勤めています。 現在の、滋賀県長浜市高月町雨森の出身です。





                雨森芳洲と対馬について私の過去のブログ
                                                    ↑ この上をクリックしてください

  
         朝鮮通信使 (この絵図は韓国展望所にあります)              クリックで拡大します


日露戦争人工水路開削 (マップ No.4)、日露友好の碑 (マップNO.3)

 

万関瀬戸(水路)は明治33年日本海軍が軍艦の通路として開削し、日露戦争の
対馬沖海戦でその効を発揮しました。 また日露友好の碑は1905年(明治38年)
の海戦で、ロシアのバルチック艦隊の負傷した兵士を島民が手厚く看護した記念
の碑です。 後者は時間的にカットしました。 写真は同パンフレットより拝借。

(とよ)砲台跡 (マップ No.3)  



昭和4年の着工で、日本海および朝鮮海峡の制海権確保の為に、6年をかけて
完成。当時としては世界最大級の巨砲でしたが、実際には一度も使うことなく終
戦を迎えたそうです。  内部は他に人もおらず不気味です。袖を引っ張られます
んでしかたなく早々、引き上げました。

しいたけが日本一だそうで・・、
何が? 聞き漏らしましたがなんでも全国大会でトップ賞を取ったとか。はいはい、
買いました。 土産にもしました。 私の里には伊香しいたけがありますが・・・。

          
                    空港ビル正面の到着客に目立つ大きな看板

対馬の皆様ありがとうございました
対馬は、南北に細長い形状の対馬島と、100を超える小島から形成される。有人
島は、主島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島、海栗島の6島である。このうち海栗島を
除く5島は橋梁または埋め立てにより結ばれている。人口は32500人 15000
所帯だそうです。

まだまだ寄って見たい所が、時間的に飛ばしたところがありました。 二日間で出
来るだけ、是非ともと思うところを回りました。

道路は細くても交通量が少なくていいのですが、トンネルと、カーブの多い島で、
運転にはちょっと疲れますね。 ゆっくりの安全運転でした。

                 対馬観光物産協会のHP 
               ↑ 上をクリックしてください
       
このブログの殆どの情報源として利用させて頂きました。感謝


          今回はいつもより更に長編でした。にもかかわらず
        ご訪問くださいましてありがとうございました

                     


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Kennyの島歩き:対馬ーその1

2015-11-21 16:22:31 | 

                      対馬、山間部が89%
      山また山、釜山が見える、史蹟も多様
        国境の島、対馬ってこんなところでした
                     島の風景、歴史、史蹟を2回に分けて

                (この日記の掲載期間:11月27日~12月3日)


               烏帽子岳展望台 看板のいち部分 (数字の赤い線は私の記載)


                    対馬: 日記 その1 風景編 
 
                                           風光明媚な島
                        韓国 釜山まで50km
            人工開削で地続きの島が上島と下島の二つに
                                  無数の島に囲まれて 
                            南北に82km、東西に18km  
                            山とトンネルの島    
                            石で葺いた屋根の建物:石屋根
                               韓国からの観光客                
                               標識はハングル文字併記       
            
           近いです対馬 大阪から機内にいる時間は1時間半
                          (大阪伊丹~福岡or長崎~対馬)


リゾートホテルの部屋から日本海が           



                                        イカ釣り船と夜明け                


                          海から日が昇る、初めて見ました   イカ釣り船が引き上げて


島の北端 鰐浦: 韓国 釜山まで50km


                  韓国展望所(鰐浦)から釜山が、でも昼(この日)は霞んで見えない・・・
                                                     手前は海栗(うに)



                                     展望所にこんな写真が用意されていました

夜は晴れておれば釜山の灯火が見えるそうです。 空港近くのホテルから車で
片道2時間、さすがに再訪は止めておきました(笑)。


 
 
                         島の北東端にある韓国展望所

島の南端: 豆酘崎つつさき



                                    豆酘崎 岩礁と白い灯台
                                  
豆酘崎は対馬の南西端の半島、朝鮮海峡と対馬海峡の分岐点で、点々と続く
岩礁の先に立つ白い
灯台が珍しいです。昔からこの周辺は厳しい水路として知
られているが、ときおり手前のブイの間を漁船が悠々と通り過ぎるそうです。 
    

            
                                       島の南西端の半島 豆酘崎


万関橋(まんぜきばし): 対馬は元の一つから二つの島に
万関橋は1900年(明治33年)に旧日本海軍が艦船を通すために開削した人工
水道に架かる橋で対馬の上島と下島の二つの島を結ぶ橋です。 なお厳密に
は対馬は江戸時代に大船越瀬戸水路も切り開かれているので南北に三つの島
です。(人口開削水路の詳細は末尾をご覧下さい)




                                       人口開削された水道

           
                        掲載の地図、右の写真(HP)は対馬観光物産協会から拝借
                                              赤い文字は私の記載

山、トンネル
レンターカーで二日間、島の北端から南端までナビを頼りに走り周ります。
山のてっぺん、お城跡、寺院などなど。道中、
山間部、トンネルがとって
も多いです・・。


   
    対馬  山また山 リアス式の海岸  (対馬観光物産協会のガイドマップから) 
                   中央に空港 その下方に 万関橋、人工水道(上・下島の境)


                                                 島また島

上下の写真: 烏帽子岳 山頂展望台から  島と山 その山裾に点々と民家が


                                                    山また山
                                                                                                        


                                   平たい石で葺いた屋根  石屋根(椎根)

対馬でしか見られない珍しい建築物だそうで、板状の石の屋根、高床式の倉庫

 



   上下の写真: 空港にはこれこそ国境の町という、雰囲気が溢れています



                         観光地はもとより、道路標識も場所によってはハングル文字で

上記情報源: 対馬観光物産協会のガイドマップ、ウィキィペデア

次週はそのー2、史蹟編をUPします。 動植物はあまり関心がなく、今回は
                         省略です


          今日もご覧下さいましてありがとうございました

                  ****************


ご参考:
万関橋、人口掘削

初代の橋は1900年(明治33年)に架けられ、2代目は1956年(昭和31年)に架けられ、
今の橋は3代目で1996年(平成8年)に架けられたもので橋長 210.0m、橋巾 10.0m、
高さ 25.5m。
 
現在、朝鮮海峡と対馬海峡を結ぶ水道はこの万関水道と寛文12年(1671年)に造られ
大船越瀬戸の2ヶ所があります。 

もともと対馬は全島が地続きで1つの島でした。朝鮮海峡から対馬海峡に通じる瀬戸として、
1671年(寛文12年)に宗義真公(21代藩主)がここを堀切り、通行の便を開きました。この
大船越瀬戸の南は数百メートルで対馬海峡になるのですが、北は浅茅(あそう)湾の奥深く
入り込む入江になっており、朝鮮海峡に出るまでは15Km程度あります。

明治33年に、この大船越瀬戸では浅くて軍の艦船が通せないと、 旧日本海軍が艦船を通
すため
に掘った人口の水道である万関水道が、ここより約2キロ北にあります。 今は大船越
瀬戸と万関水道の2ヶ所で朝鮮海峡と対馬海峡の間を船が行き来できますが、大型船は万
関水道を通るようです。 

 


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