趣味・興味プラス挑戦

郷土史、登山、スキーなどを写真と共に書き綴っております

Kennyのお城歩き:水口岡山城

2014-11-07 16:06:28 | 城址

主郭東西に天守級の建物があった
               水口岡山城 滋賀県水口町    
新たに発掘の二か所から石垣、瓦、礎石 などが
  実感ですね、秀吉の城、本当にあったんや
 
  第三次発掘調査現地説明会で案内された現場を見て
                 Kennyの滋賀から情報発信

              このブログの掲載期間:11月28日~12月4日)

今回(第三次)はお城の主郭部、その東西両端を発掘
下の写真をご覧ください。三筋の街、水口町の航空写真です。
そして、緑の山がお城のある大岡山(現在の古城山)です。


             
   山頂の白く細長い地が水口岡山城の主郭部分です
                      (水口町紹介パンフレットの写真に私が加筆)

 
                             
西側     主郭部(山頂部)     東側

         
                      
水口町の、その昔の大手道から見た大岡山

今回の発掘からこんな事が分りました
出てきた石垣や瓦、礎石から 主郭(山頂部)の東西両方に天守級の重
層建造物
(二階建て以上の建物)があったと推定できる。

それは同じ規模の天守があったとは考えにくく、石垣の並びや若干
の規模の違い(実際発掘に携わった解説員の ”強いて云えば” またそ
う考えたいとお断わりの上で)から東側が主の天守級、西側に同規模
の櫓があったのではと。


なお、お城と云えば天守を思い浮かべるけれど、この城にいわゆる天
守があったかどうかは現時点不明だそうです。

余談です:
  ・・らしいです天守と天守閣 :  本来、天守と呼ぶ方がよろしいようで、天守閣
                      は通俗的に使われているとか。

 (ご参考)
ウィキペディアの部分引用:
       
「てんしゅ」の漢字表記は「殿主」「殿守」「天主」なども当てられる。
              天守閣(てんしゅかく)という呼称は明治時代前後に見られるよう
              になった俗称である。建築学の学術用語では「天守」(てんしゅ)が
              用いられている。

新たに見つかった石垣
東端

 

                              瓦葺建物の礎石とみられる

西端

                                 石階段


                                 石組溝


                           根石(建物などの土台石)
                     

異なる種類の瓦が大量に
東端からは: 例えば大溝城(高島市)の瓦が転用されていた


               こんな風にいろんな形の瓦がごろごろと埋まっていました


                                   当日会場で展示されました


                 水口岡山城築城時に制作された軒瓦 (同展示品、以下同じ)


西端からは: 
矢川寺など寺院の瓦が転用されていた

 

 


                           側石に石仏を転用(パンフレットから)

これだけ当時の宝物を見せて貰ったら!
さほど大きな山でもないし、お城・砦(跡)の多い滋賀県に住んで、
ちょこっと城跡歩きをしている私のような者でも、まあ、それな

の程度の城跡(それ程期待は・・)かと思っていましたが、なんと
今回の現地説明会は目か
らウロコものでした。

       本当にあったんだここに! 威容を誇る拠点城郭が

破城
関ヶ原の合戦で西軍が破れ、東軍(徳川)によって東海道を睨む

秀吉にとって超重要拠点だったこの城も叩き潰されたのですが、
石垣に纏わりつくように、叩き潰されたのかこれらの瓦礫を見て、
なるほど、物語風に聞いていたこのお城、今日の見学でしっか
りと実像を見た気が
しました。 

水口岡山城
天正13年(1585)、秀吉は中村一氏(かずうじ)にこの城を築かせ
ました。このころは既に東海の徳川家康や関東の北条氏は
秀吉
にとって敵対する勢力であり東海道を眼下に見据え、鈴鹿峠
を望
む立地のこの水口は東国への足掛かりとして重要な城でした。

     
                          当日参加者が頂いた資料


次に期待
これからも発掘調査は続き、近い内に現地説明会も期待できるそ
うです。

参考資料:当日頂いたパンフレット(上の写真)、ウィキペディア

ちょっと余談
見えていました、山頂の広場から鈴鹿の槍ヶ岳、鎌ヶ岳。 こんな
山容、初めてみました。

   
                       鈴鹿山系 鎌ヶ岳
                              
                          

    今日もご覧くださいましてありがとうございました

 



 

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Kennyの歴史探訪:三筋の町:水口町

2014-09-01 10:38:40 | 城址

  三筋の町、水口町  (滋賀県甲賀市)
東国から近江への押えの拠点、水口岡山城
   その城下にある防衛上の三本の通りを見てきました
            Kennyの滋賀から情報発信

         (この日記の掲載期間:9月12日~9月18日)

先ずは下の写真をご覧ください:三本の縦筋


  水口城資料館で入手のパンフレットの表紙写真借用 (赤いマークは私の記載)

この写真を入手出来ただけで満足です

いつの日か航空写真で、このように町の中に意図的に築いた三本の
道の実像を見てみたいと思っていました。 これで実感が沸いてき
ました。

また、この道だけをじっくりと歩いてみたいとも・・。 実行です。


       水口城歴史資料館に展示の資料を撮影拝借   (赤いマークは私の記載)

三筋の道路脇に、今は何も残っていないけれど・・・
もう430年も前のこと、当時の遺跡は三本の道の脇に見当たりません。
関が原の合戦後の江戸時代以後のものでしょうか、問屋場跡呉服町
漆師屋町などがあったところに石柱の標識が立っています。今日目にし
た土蔵、塩問屋は江戸時代からの流れだそうです。一軒のお菓子匠が
旧東海道沿いにありました。 お聞きすると創業は江戸時代に遡ると。


   同上 (赤いマークはこの資料の無断使用を邪魔する為に敢えて入れました)

 
  お願い:当資料館で、個人の趣味での使用を条件に撮影をさせて頂きました。
        この資料の無断使用はご遠慮くださいね。たのんます m(- -)m

しっかりと残っている三筋の道!!
水口岡山城跡も近年の発掘調査が話題になっています。本丸は総石
垣で城郭は滋賀県でも最大級。 という事は日本でも最大級でよすね。

三筋の道とは?
その城への進入を防ぐ迷路的役割を果たした三筋の道はしっかりと
残っており、近江と鈴鹿峠を隔てた美濃他、東の国との軍事的要塞
として位置づけた当時の豊臣政権の思いに耽るには十分過ぎる歴史
探索でした。 戦国時代当時の様子を私達はこの水口町が残してくれ
た遺産から容易にうかがい知ることが出来ます。

                              
では今日の目的、三筋をそれぞれ辿ってみます
この三筋の道の間隔はそれぞれわずか30mから50m位なんですね。

                                        


 この場所は上の絵図の三筋に分かれる「左端の位置:西側」 真ん中の道が旧東海道

   
             
 その手前 上の絵図で旧東海道の左(西側)から見た 「三筋の道」入口部
                         (私は旧東海道に立っています)

最初は向かって左の道から


                    写真上部に水口岡山城の大岡山が見えます


 
    曳山が納められた建物(山蔵)              古の町名、祠なども


                  途中、左に大岡山が見えます 麓に大岡寺が


真ん中の道(旧東海道):ここでUの字に左の道へ進みます


                            高札場跡   左の道が旧東海道

やがてこの場所に出ます。江戸時代、幕府や領主が発布する法令を領民、
旅人に告示する場所。 今度は旧東海道(左の道)を進みます。






               旧東海道は途中、左右(絵図の右・東側から見て)の道に分岐

ここでまた道は分かれます。 旧東海道はここを右側の道に進みます


                                   旧東海道


                      旧東海道に江戸時代操業のお菓子匠が


                            そのお菓子屋さんの前


向かって右側の道:ここでまたU字に折れて


            ここは絵図の左(西側)です  以下はここから一番右の道を歩きます


 
  江戸時代からの塩元売り卸とか                    土蔵
 
この道筋にこのような建物がありました。 前におられたおじさんと暫し
会話です。 下の写真の祠も各町にあり、その数は50ほどのことです。


 
 町内にはおおよそ50のお祠があるそうです     愛宕の火の神様をお祭りしています 


三筋の道を東(絵図の右)に抜けて再び旧東海道へ


          旧東海道(上に掲げた絵図の一番右端の一本道)の古い町並み


     旧東海道にレストランがあります  その一本道の古い町並の旧家を使って  
           

ちょっと寄り道、情報


                             大岡寺

三筋の絵図の左(西側)から見て一番左の通り中央すぐのところにあります。

 
                                                                 (拡大します)



 
                                                                   (拡大します)

                         
                          この建物の中に曳山が納められています

水口岡山城について
天正13年(1585)秀吉によって大岡山に、上述の理由(要塞)として
築かれ、関が原の合戦で東軍(家康)に滅ぼされてこの城は廃城となり
ます。 

水口城について
他にもこの水口町には水口城がありますが、この城は徳川将軍上洛時
の宿舎(御殿)としての目的で、三代将軍家光が使った他には殆ど利用
されずに、しかし幕府は江戸末期まで維持管理していたそうです。


   水口岡山城、水口城、水口宿に関する概要の過去の私ブログは ここを 


       今日もご覧下さいましてありがとうございました



 

 

 

コメント (9)
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Kennyの歴史探訪:鯰江城・井元城

2014-01-13 14:03:42 | 城址

  こんなお城、こんなお話が
=六角氏最後の戦い 鯰江城・井元城=
滋賀にはまだまだあ
ります、日本史を作ったお話です
      
Kennyの滋賀から情報発信
      
(この日記の掲載期間:1月31日~2月6日)


                     鯰江城跡    滋賀県東近江市鯰江町
                       (なまずえじょう)

織田信長が近江を制圧した最後の地
決着をつけた城、
鯰江城、その跡地は今は集落となっており
大部分は失われて遺構らしき目立ったものは見当たりません。
とは言っても決戦の地だった鯰江町集落を歩くと、ところどころ
に土塁の一部や屋敷跡などを見ることが出来ます。

  
     民家の庭に今も土塁の一部が残っています

      
              公民館(前方の黒い建物)の裏にも土塁が

六角氏終焉の地:東近江市鯰江(なまずえ)
織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀争乱で、信長の攻撃に
よって観音寺城を追われた六角承禎(しょうてい)・義治(よしはる)
父子
が地元(現在の東近江市鯰江町)の土豪、鯰江氏を頼り鯰江城
に籠もるも信長の家臣 佐久間信盛の包囲を受けて
降伏します。

近江南部を支配した六角氏は鯰江城で降伏し、これを最後にこ
の鯰江町で
元亀争乱は終わりを告げたのだそうです。天正元
年(1573)の事です。そうなんやー、知らなかった~~

    
            県道217号線沿いの標識

この標識のある一帯が城跡です。特徴のある城で愛知川右岸
に元々あった河岸段丘上に築かれた城です。元は在地の土豪
森氏が築いた城で、後
同土豪の鯰江氏が居館としたそうです。

鯰江町での県主催の講座に参加しました
松下 浩 先生
(滋賀県文化財保護課)
の講義で講座の開始です。
この争乱時の特徴を松下先生は次のように分析:

    
              講義される 松下 浩 先生(滋賀県文化財保護課)

1.中世近江の各勢力は「自立性」であったと。六角氏を核
  としたゆるやかな結合(湖東、湖南)、湖西(高島七頭)
  そして湖北(京極・浅井氏)の勢力は共に独立したもの
  だった。つまり
近江一国として信長に対抗するにはまと
  まりの欠如があった。

2.信長は敵対する勢力を弾圧。従う者は安堵。つまり、中世
  近江の在地勢力を基本的に温存。その上に佐久間信盛(野
  洲、栗太)、羽柴秀吉(湖北)、明智光秀(志賀)を置く。

なお、松下先生の当日の講義は元亀争乱とは、その経緯。近江の反信長勢力、
信長包囲網、黒幕はいたか、そして信長による
近江支配の完成に至る興味深
い内容のお話でした。ここに取り
上げたお話はその一部です。

元亀争乱とは:講義から
信長と近江勢力との戦いです。元亀元年(1570)4月 浅井氏
の信長離反から
信長の近江侵攻が始まりました。以降
天正元
年(1573)9月の鯰江城開城までの3ケ年間を元亀争乱と呼
びます。

鯰江城(跡)

    
               本丸跡と考えられている。 今は畑となっています


                           当日の レジュメから

  
             鯰江城の現地案内板    クリック頂き拡大してご一読ください 

鯰江氏は降伏ご全国の大名に分散します。鯰江定春は秀吉に
仕え大坂に行きます。その辺のお話は上の案内板にあります。
  
 
元亀争乱の経緯、私・Kennyの解釈

姉川の戦い
に始まり(と端折っていいのかな?)信長の近江
の勢力との戦いは以後 良く知られている戦いだけでも比叡山
き討ち、一向一揆(金森・
三宅、湖北十ヶ寺)、小谷城の
戦い、
一乗谷の戦い(浅井氏と同盟関係にある朝倉氏の居城)
と続き近江北部を支配した浅井氏が先ずは滅亡。

そして今回の主題、六角氏の滅亡
1573年(元亀四年・
天正元年)織田信長と近江の諸勢力が戦った元亀の争乱は終
わり近江は名実ともに信長の領地となったんですね。という
よりもその後、
安土城築城へと時代は進み近江は政権の中枢
を占める都市になりました、わずか3年ではありましたが。

 
                         現地の案内板から

井元城(跡)
鯰江城の約1km東にある井元城は織田軍が鯰江城を包囲するた
めに築いた付城です。城の入り口部分に馬出し と呼ばれる空間
を二重に設けた「重ね馬出し」という珍しい構造を持つことで
知られています(とのことです)。また
自然の地形である「河岸
段丘」
利用して築城された中世の城郭です。


    井元城跡        土塁に囲まれた城跡の一部(下図の大きい四角の部分)


                   当日のレジュメから拝借
絵図左上、大きい四角の右にある二つの 馬出しです


                  
馬だしの部分 
 馬だし:城の虎口(入口)や門を防御するためにその前に付設した空間。

現地の案内
講義の後、午後は現地に残された鯰江城跡・井元城跡の遺構を
地元東近江市教育委員会の明日一史先生の案内で見学させて
頂ました。

 
          現地案内板から             その石組みが保存されています
                        
                          
                     暗渠排水路、石組みなどの詳細は
            この写真をクリックしてください

 
      今回の探索コース               地図はクリックで拡大します

アクセス
探索は正直なところ今までの探索の中では交通の便が今ひとつ
です。また残された遺構が少ないので地元でどんどんと、何処
で遺構を見ることが出来るか訪ねて歩くのがベストです。こう
した事情で、車で回るしか
方法はないようです。路線バスは何
時間に一本だけです、その地域では
・・・。

高速利用の場合は
名神八日市ICです。県
道327号から途中
県道
217号に入り(ICからだと右折)、先述の標識へと辿る
のが分り易いと思います。または国道307号から途中 春日神
を左折して
217号に入ります。

   
              鯰江城跡の所在地図        地図はクリックで拡大します

     今日もご覧くださいましてありがとうございます

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Kennyの歴史探訪:水口岡山城と城下町

2013-11-22 11:57:25 | 城址

   水口宿、水口城下町
全国を見渡しても他とちょっと違うぞ
          三筋の城下町、水口!!

講演会 水口岡山城と城下町を拝聴して
         Kennyの滋賀から情報発信 
      (この日記の掲載期間:11月29日~12月5日)


     甲賀市蔵 水口宿粗絵図・部分 (当日のレジュメ表紙の写真を
拝借)
       町の中に三本の道が走っています(これが大きな特徴の一つです)

現、水口町の生い立ちはこいうこと?

この町は、秀吉と家康が軍事上、重要な拠点として位置付
けたことにより 特に面白い特徴をもった町になった。

  
                秀吉が築いた水口岡山城の古城山

  

ただし、このように簡単に言っているのは決して今回の
講演で先生方がそう仰ったのではありません。水口の町
について初めて専門の先生
方のお話をお聞きしての感想
です。

じっくりと歩いてみたい町です、キーワード;
それは、町に三本の道が並行して走っている(三筋の城
下町
)。その道に沿って両側に町家が広がる。その町人
たちの住居兼店舗である町家と武家屋敷は計画的に配置
されている。また寺社は城下の周囲に置かれています。

その特徴の背景には二つのお城(水口岡山城、水口城)
の存在
があったのです。


       水口岡山城下と水口宿の絵図 (甲賀市教育委員会発行の冊子より)
   赤い文字、矢印は私が追記。 矢印 ↓ の位置は下の写真の場所

三筋の城下町
これが水口岡山城下町の構造上の一つの大きな特徴です。


                                           三筋の辻 
                       真ん中の道が旧東海道だそうです

野洲市(西)の方から街道を東に進んで来るとこの場所に
辿ります。ここで道が3つに
分かれている。 初めてここを
訪れた時は、なんと道の真ん中に家が建っている。住宅地
開発の影響かとそれ程気にもしておりませんでした。

 
                 (甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)  

ところがこれは勘違いだと今回の講座で知りました。秀吉
がこの水口に城を築き、徳川時代になって東海道五十番目
宿場が築かれて、古城山の南に町並みが形成された特
徴的な「三筋町」として発展した宿場だったのです。上の
写真のように、一目でわかる形で残っています。


                   城下の古い町並み

いづれは町をじっくり探索してみようかと。 問屋場跡、本
陣跡、呉服町跡など今も残る三筋の町並みを訪ねることが
できます。 もっとも甲賀市水口町の歴史は古く、伊勢参り
の宿村としても栄え開けてきた町でもあるとのことです。

三筋の城下町は何故?
この解説は講演の中には出てこなかったと思います。別の
資料によりますと、町屋を隙間なく建ち並べ、城下町に侵
入する敵が町屋で視界が遮られ城、大手の虎口(城の門)
を隠す役目も担っていたのではとの事です。

水口岡山城、水口城
今回は、過日の講座の中で「三筋の町」に特に興味を抱き、
その感想日記です。また機会を作り二つのお城について取り
上げようと思いますが、以下は以前に訪問した時の記憶です



                  水口岡山城跡 (古城山山頂)

                         
                水口岡山城の解説(クリックで拡大します)

織豊(信長、秀吉)政権時代の水口の町
天下統一を進めていた秀吉がこの地に軍事上の理由で、天
正13年(1585年)にこの町の大岡山に城を築き、さらに
は山麓を城下町として整備しました。これは家康を意識し
た動きです。秀吉没後天下をとった徳川家康は水口を東海
道の宿駅に指定し、徳川幕府にとって大事な拠点と位置付
け、宿場町として栄えていきます。また徳川三代家光は上
洛時の宿泊施設、水口城(現在も復元の天守を見る)を築
きました。 

 
                  (甲賀市教育委員会発行の冊子より拝借)

       
     写真、情報を引用させて頂いた冊子です
            (甲賀市
の歴史民俗博物館で販売しています)

  今日もご覧くださいましてありがとうございました。

コメント (2)
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Kennyの歴史探訪:観音寺城を探る

2013-04-28 07:47:43 | 城址

 滋賀県にある観音寺城は!
こんな特徴と、なんとこんな謎もあり
         Kennyの滋賀から情報発信    
           
                 (この日記は5月31日~6月6日)

       今日のブログはかなりマニアックな内容ですが
          記録の為にと思いまして・・・ m(- -)m


         伊庭 功 講師(滋賀県教育委員会、文化財保課)

そうか、他とはちょっと違う城やったんやー
今までも何回か私のこのコーナーで佐々木六角氏の城、
観音寺城
を取り上げましたが 今回講演の副題 「全国最
大の中世山城の謎」
でこの城の新たに解明された新しい
事柄を多く学ぶ事が出来ました。ちょっとマニアックな内容
になりますがここにおさらいも含めて挑戦して見ました。講
師は伊庭 功先生です。(後で紹介)


   主郭(本丸)はこの山の最高部には築かれていない
  
   (当日の映像資料に私が文字を入れました)


        県道2号線、安土城址手前、常楽寺付近より

観音寺城(跡)の特徴:

1.全国有数の規模で日本五大山城の一つです。
  春日山城(新潟県)、月山富田城(島根県)、七尾城
  (石川県)、小谷城(滋賀県)と、その中でも最大規模
  の観音寺城(滋賀県)です。ねー、どうです滋賀だけ
  でも
二つもあるんですよ。

2.石垣を多用した中世山城
  安土城よりも先にあった中世城郭で石垣が多用さ
  れたのはこの観音寺城がほぼ唯一の例

 
      最近発見された珍しい形の大石垣

石垣の下部に段差がありますね。現時点では目的は謎だそうです。


3.城内に家臣を住まわせた。その郭跡は多数発掘済
    (下に掲げた地図の白く四角に見える多数の箇所)

     信長や秀吉も同様、家臣への伝達などを目的に城内
     に住まわせていました。
   *六角氏はそれ以前に実施していたことになります。

 
       観音寺城の縄張り図           同拡大します
                        
   (クリックしてください)

 この地図の棚田のようにたくさん見える白い部分が郭(くるわ:建物
 が有ったところ)です。主な郭には伝承される郭名が入っています。
 赤い線は
城跡散策路です。 

 
 本丸跡調査で建物の跡(でいいかな?)を発掘   同、拡大します

  
その他の郭でも同様の調査結果が報告されています
    
    
(上の二枚の絵図は過去の講座およびの今回講座で配布の
     
資料からの引用です)

4.南麓の城下町石寺に楽市を開かせた

次に観音寺城の謎とは:

1.中世の山城らしくないところがある
  ・最も重要な主郭を山の最高部に築いていない
    (上に掲げたきぬがさ山の写真でも明らかです)

  ・城に入る道(登城道)が少なくとも8ルートはある:
   下の写真 
(これでは敵の侵入を受け易いのとちがう?!)

    

          8登城ルート (講座の映像資料から)

  ・なんとも防御の策が不明確で城郭としての評は低い
   とする見方もあるそうです。
    ・ 他にも幾つか考えらえる視点から紹介がありました

2.一方、山城らしい部分もある
  ・北尾根に長大土塁があります(土塁を見学では歩く)

 
  
       その土塁の上を歩く山城探索の皆さん

 
上の写真の右側は切り立った崖、急坂です。また左側には郭
 が
雛壇のように(下の絵図の白い部分)続いています。

  
         巨大で長い土塁は城の北端(尾根)にあります

  ・城の出入口の工夫:食い違い虎口が幾つか

 
        食い違い虎口の絵図 (同、映像資料)

出っ張った石垣の所(棒で指している箇所)で方向転換しての入城
を強いられる。 侵入者は横槍を受けるなどの危険がある。
 

  
         観音寺城のその場所の写真     

  城内の道は主郭を通過しない
  ・屋敷街にも土塁や石塁で防衛

観音寺城と観音正寺の関係

1.観音正寺(西国三十三所、32番札所)
  観音寺城跡の中央に境内がある。城よりも先に建立
  (平安~鎌倉初)された。その後火災(らしい)などで山麓
  石寺へ移転。そして再び山上に復帰(慶長年間)と伝え
  られている。

2.観音正寺の遺構から:
  観音寺城跡に中世観音正寺の遺構が残る。このお寺も
    弥高寺跡(伊吹山山麓)のような中世の山岳寺院として
  の存在として解明が進んでいる。(他にも遺跡から根拠が紹
   介された)従い両者は 
共存したた可能性が高い。

  
更に寺院を城郭に改変した場所も判明したそうです。
  同様の例として滋賀県では敏満寺遺跡(名神高速、多賀
   SAはその境内に設置)、などを紹介されました。

  遺構についてはまだまだ他にも紹介がありました。

最近の調査からも言及されました

1.雛壇状の郭
  複数の出入り口を持つ屋敷地が互いに連結

2.城内石垣の随所の火災
の形跡
  観音寺騒動、元亀元年、天正十年に火災したと伝わる

3.山麓「観音谷」の古い石垣 (これはKennyには意味が??)


講演の最後にこのように締めくくられました


          講演の映像資料から


講師の伊庭 功先生です
滋賀県教育委員会文化
財保護課の専門の研究員さん
でこの観音寺城跡の発掘調査
にも従事されて来ました。
最近では巨大な、そして謎めいた
形の珍しい石垣を発
見されたと関係者からお聞きしています(上に掲げた写真)。

5年前に安土城を最初に案内して頂いたのが伊庭先生
で、その後も他の多くの専門員の先生方と共々お世話
になっています。

この講座を紹介します
滋賀県では文化財の保護だけではなくて発掘調査など
の情報を広く発信していこうと幾つかの部署がそれぞれ
の視点で講座を開催しています。今回の講座は滋賀県
立安土城考古博館
が開催する「連続講座 シリーズ近
江の城を探る」
の第10回目です。

お願いとお断わり
この講座・感想日記の掲載は伊庭 功講師のお許しを頂
いております。いつものお願いですが、内容には聞き違い、
勘違いなどにより間違いがあるかもしれませんがどうか
素人の日記とご容赦頂きますようお願い致します。

     前回の観音寺城のブログは ここを

  今日もご覧くださいましてありがとうございました

静岡県からお越しくださったお二人
今日(6月7日)滋賀県主催の安土城址、歴史探索で
お会いした
お二人、わざわざ今日の為に静岡県から
お越しくだ
さいました。昨年は神奈川県、福岡県から
同様の目的で滋賀を訪ねてくださった趣味を同じくす
る友人にお会いしています。このように遠くから滋賀
を訪問頂き、県民の一人としてとっても嬉しいです。
今日のお二人はこの観音寺城址をまだ見ておられな
いとの事でしたので この日記を紹介させて頂きました。
ご訪問頂き、ありがとうございます。
 
ようこそ滋賀へ! Kenny  (6月7日、2013)


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