『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

翻訳 これはパイプではない1

2012-04-08 11:02:29 | 翻訳

[翻訳]  NO.1

題名:    これはパイプではない

作家:    クォンジエ

出版年月:  201011

出版社:   図書出版

出版形態:  自伝小説3の中の1

 

作家履歴: 

 1960年慶州で生まれた。1997年「ラップリュム」に短編「夢見るマリオネット」を発表して登壇。小説集「夢見るマリオネット」「爆笑」「ワタリガニの墓」、長編小説「4月の魚座」「美しい地獄」「赤い絹の風呂敷」がある。理想文学賞、同人文学賞を受賞した。

 

作家を語る:

 記憶と痛手は忘却することができず、持続的に再び置かれて再び解毒されるという点で、生きることは逆説的に興味津々なものだ。「私は理解するために回想することはないが、不幸また幸福でないために回想する」(バルト)という言葉はそれ故に正確だ。他者が隠れ面識がなく逃げる場合、その人に対する渇望が極大化すること、そして他者、つまり時間をかけて回顧し、記録をやめない衝動、それが生きること、あるいは小説の問題ではなかったのか。そのようにクォンジエの小説は「文を書くことはあなたがいない、まさにそこにあるものを知ること、これが文を書くことの始まり」というバルトの宣言と共鳴し「不在」の文を書くという命題を可能にする。

キムミジョン(文学評論家)

 

[本文]

私の小説は・・・・電話としてね

 携帯電話のモーニングコールのベルが根気強く鳴る。女性の小説家のイミジはいつもの習慣通り横たわったまま、手を伸ばして携帯電話を乱暴に止めてしまう。こうしてモーニングコールが鳴っても、もう一度こっそり眠り、1時間後に設定しておいた2番目のアラームのベルが鳴って起きるのだ。その1時間程度の仮睡眠状態を楽しむことは彼女の前から習慣だ。正確には小説を書き始める頃から生まれた癖だ。その時見た夢や考えは、まるで憂いが浅く澄んでいる水に垂らした釣り針のように、たった今でも取り出して鳴らすことができるようだ。夢と現実の境界で楽しむこと、作家になってしまって、いつからか彼女は男たちとは違う世界に属すようになった。

 日の光はこんなに明るいのだろうか。満開の白いライラックの花房がセメントの塀に影法師を無心に落としたまま、四つに分かれた小さい花冠を奥深くまですっかり開き、日の光を全身で楽しんでいる。

 その花の木の影法師の下に一人の女の子の影法師が近づく。少女は花の影の下に近づいて座る。少女の青白い顔色は清らかな日の光のせいか大理石のように毛細血管が透けるように透明だ。とても痩せた少女は満開のライラックの花影の下に座って何かを大切に両手で抱える。指の骨が扇の骨のようにやつれている女の子の指のなかに入っているものは黄金色の毛がパサパサしたひよこだ。日の光の中でひよこは丸く巻いてある黄色のアンゴラ毛糸の塊りのように温かく見える。そのやせた指の少女にひよこはこの上ない慰めになるだろう。心がひとしお温かくなる。あっ、その女の子・・・・少女を呼んで触れてみたいのだが・・・・あっ、普通じゃない・・・・

視線は少女に向けていて考えるけれど、じっと鏡を通して反射した少女の姿を見ているようで退屈な感じになった。それに長く安らかな静寂さえガラスの膜のように遮られ、少女に視線が届かないという考えにひたすらもどかしいだけだ。そんな心情がわからないように少女が無心に歌を歌い始めた。

   馬車の上に積まれていく悲しい目の子牛

   遠い山を見て涙を浮かべるその様子が物寂しい

   空高く飛んでいく燕についてきて

   あんたの行く道がどこかと聞いてみます