読書感想93 指揮官たちの特攻
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著者 城山三郎<o:p></o:p>
生没年 1927年~2007年<o:p></o:p>
出身地 愛知県名古屋市<o:p></o:p>
出版年 2001年 <o:p></o:p>
出版誌 小説新潮<o:p></o:p>
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感想<o:p></o:p>
自身も終戦の年に海軍特別幹部練習生という名の特攻隊員の予備軍として過ごした著者が、海軍兵学校出のパイロット、いずれも特攻で命を失った軍人のことを描いたものである。遺族や生き残った人の証言、手紙などから、彼らの人となり、想いに迫ろうとした作品である。亡くなられた方々の無念と怒りが伝わってきて、苦しく後味はよくない。読むことも大変だったが、日本人として知らなければならない義務だと思って読み終えた。<o:p></o:p>
最初に出てくるパイロットは高橋赫一少佐。真珠湾攻撃で第一弾を落としたパイロットで、公私の区別に厳しく、瀕死の我が子に航空隊にある特効薬を使うことを拒むほどだった。<o:p></o:p>
著者が真珠湾に取材に行った時に土地の人は、真珠湾攻撃では日本軍の空襲は正確で軍事基地だけに集中して、市民はバルコニーに出たり屋根に上ったりして見物していたが、当時のニュースでは、海に出ていた漁師30人やドライブ中のカップルが銃撃されたと報道されて驚いたと話してくれた。アメリカの情報操作はイラク攻撃の大量破壊兵器の存在がはじめではないのだ。真珠湾から始まっていた。いや、もっと前からなのかもしれない。参戦支持の世論つくりのために。<o:p></o:p>
特攻隊の嚆矢と掉尾を努めた二人のパイロットは、海軍兵学校の同期で同じ飛行科で学んだ艦上爆撃(艦爆)の仲間だった。嚆矢を務めたのは関行夫大尉で1944年10月25日フィリピンのルソン島、マバラカット基地から飛び立った。一般大学出身の士官ではなく、生っ粋の軍人、海軍兵学校出の士官に「神風特別攻撃隊」の嚆矢を飾らせよという海軍の方針だったという。腕のいいパイロットだが、零戦乗りではなく艦爆乗りだったので、関大尉は「なぜ自分がえらばれたのか、よくわからない」と言い、また「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて」とも言っていた。関大尉の指揮する5機は米軍側の記録では「護衛空母一隻沈没、同二隻小破」という戦果をあげる。関大尉は23歳だった。<o:p></o:p>
特攻隊の掉尾は中津留達雄大尉。終戦の日に大分県の宇佐基地から飛び立って沖縄の伊平屋島の米軍キャンプの近くに突っ込んで亡くなった。関大尉と同じ23歳。宇佐航空隊の司令官だった宇垣中将は隊員たちに終戦の事実を隠し、中津留大尉の操縦する機に同乗して、沖縄への特攻出撃を命じた。宇垣中将の自決の巻き添えを食ったのだ。<o:p></o:p>
遺族たちの戦後もむごい。特攻隊員の遺族というだけで白眼視され、関大尉の母親も「石もて追われる」ごとく転居を重ね、高橋赫一少佐の妻も教職から追われ遺族年金も絶たれた。生まれたばかりだった中津留大尉の一人娘は、母親が再婚したあと、中津留大尉の両親に育てられた。また亡くなるまで息子は泳ぎが達者だからいつか帰ってくる気がすると言い続けた特攻隊員の母親もいた。<o:p></o:p>
極限状態の中で人間の弱さがエゴとして出てくる。特攻として誰を選ぶのかでも決してきれいごとではない。遺族に対する周囲の仕打ちは典型的な弱い者いじめだし、うっぷん晴らしだ。未曾有の敗戦と米軍の占領という事態に御身大切の心理が大衆の中に広がっていったのだろう。まさに国としての品格のなさを露呈した事態だ。負の遺産を含めて戦争で起こった事実を継承していかなければならない。その意味でも8月の一連の慰霊の日々は大切にする必要がある。1年に1回過去と真摯に向き合う機会だからだ。
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