読書感想96 秀吉はいつ知ったか<o:p></o:p>
-山田風太郎エッセイ集成<o:p></o:p>
著者 山田風太郎<o:p></o:p>
生没年 1922年~2001年<o:p></o:p>
出身地 兵庫県<o:p></o:p>
出版年 2008年<o:p></o:p>
出版社 (株)筑摩書房<o:p></o:p>
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感想<o:p></o:p>
山田風太郎のエッセイを集めたものである。一番古いもので1960年、一番新しいもので1996年という30年以上にわたって発表したエッセイである。テーマは大きく4つに分かれている。<o:p></o:p>
Ⅰ 美しい町を<o:p></o:p>
Ⅱ わが鎖国論<o:p></o:p>
Ⅲ 歴史上の人気者<o:p></o:p>
Ⅳ 今昔はたご探訪<o:p></o:p>
この中で一番おもしろいのは著者のフィールドである、歴史に関する見解だ。題名にもなっている「秀吉はいつ知ったか」(1979年)は本能寺の変を、いつ秀吉は知ったのかと史実の再検討を試みている。公式には6月2日早朝に織田信長は明智光秀に討ち取られ、嫡男の織田信忠も午前10時頃には討ち取られた。その一報を秀吉が受けたのが3日の午後10時で、それから毛利と交渉し、4日の午前10時に毛利方の高松城主清水宗治の切腹で、毛利との和議を成立させたとある。しかし満々たる水で隔てられた水攻めの最中に、毛利と夜中に交渉するというのは、想定できず、実際の交渉は3日の昼間に行われて、翌朝和議が成立したのではないかと著者は推論する。京都から備中高松までは200キロ以上の距離がある。昔の悪路で3日の午後10時に変報を受け取るのも異常に早いが、実際には3日の昼間に秀吉は信長の討ち死を知ったのではないか。単なる幸運で天下を取ったのではなく、準備万端整えていた様子が随所に見受けられるという。著者は小説「妖怪太閤記」の中で秀吉が信長を暗殺したとしたが、史実においても不審な点が多々あるそうだ。<o:p></o:p>
また「信長は『火』秀吉は『風』」(1981年)の中で、次のような仮説を立てている。<o:p></o:p>
「もし、本能寺の変が起こらず、信長が長生きしていれば、秀吉は相変わらず忠勤を励んでいただろうか?<o:p></o:p>
歴史における、こういう『イフ』の問題設定はナンセンスと知りつつ、あえて考えてみるとー<o:p></o:p>
結論だけを言うと、秀吉は家康と組んで反信長クーデターをおこしたであろう、というのが私の想像である。」<o:p></o:p>
最近では信長暗殺に秀吉が絡んでいるという設定の小説が出ている。加藤廣の「信長の棺」(2005年)とか。そういう見方の初期に著者の作品はあるのだと思う。秀吉という大悪党の緻密な謀略家ぶりが明るさの裏に張り付いていて、怖ろしい。<o:p></o:p>
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