著者 : キム・エラン
本作の受賞 : 2010年第34回イ・サン文学賞作品集の優秀賞受賞
何年か前の秋夕、ジフンは司法試験に合格して軽やかな気持ちで祝祭日を過ごしていた。親戚のお祝いや激励を喜びながらもひそかに疲れを感じつつ生前行ってみたことのない姻戚の8等親の家まで回った。その日叔父さんの姿は見えなかった。叔父さんが秋夕の前日に泥酔して茶礼に来ないのは何年も続いていることだった。ジフンは父親の乗用車に乗って先祖の墓に向かっていた。場所を移してきれいに整えてから、目上の人達が誇りにしている所だった。5代の祖父の代からお辞儀をして幾層にも階段式の墓を降りていく時には我知らず敬虔な自負心が生じたものだった。その日はひと際暑かった。曲がりくねった砂利道を走っていた父が突然片側に車を止めた。前に知り合いの姿が見えた。道端には、別の親戚の自家用車がずらっと止まっていた。ジフンは車から降りて家族と一緒に人が集まっている所へ行った。そしてそこにヨンデ叔父さんがいた。赤くなった顔で畔にはまったまま、父の従弟であるヨンデの長兄の当惑した表情がまず目についた。長兄はヨンデ叔父さんを起して立たせた後叱った。なぜ酒を飲んで運転するのか、田んぼにはまったから良かったものの、死んでもしたらどうしようというのか、何かそんな言葉だった。ヨンデ叔父さんは相変わらずぼんやりしていた。父の従弟数名がオートバイを引き上げてから近所の教会の前庭に止めておいた。人々は叔父さんをどうするか相談した。そうして一旦先祖の墓へ連れていくことで意見がまとまった。そこに放っておくこともできず、酔った子孫でも墓参りするのが正しいからだ。ヨンデはジフンたちの車に乗ることになった。そこの席が一つ空いていたからだ。エアコンをつけるなんてとんでもないと言われ、それでつけないでいると責められる暑い日、ジフンは妹とヨンデ叔父さんの間にぴったり挟まって最大限縮こまっていた。叔父さんと肌が触れるのが馴染めず、窮屈だったからだ。しかし、車が少しでもガタガタするたびに叔父さんの肩と腿がジフンにぶつかった。ヨンデは酒の臭いをさせてジフンに話しかけた。今回合格したと聞いたし、僕は君がとても誇らしいと、そうして片手でジフンの手をぎゅっと握った。汗たっぷりで湿っぽく熱い手だった。ジフンはその時の叔父さんの手の感触が、その熱さが本当に嫌だった。ジフンにとってヨンデの印象とはそんなものだった。蒸し暑い日、気の利かない人が突き出す熱い握手のようなもの。ヨンデは先祖の墓に到着するまでジフンの手を放さなかった。
タクシーはいつのまにかにオモク橋にさしかかった。
「俺が友達に甥が検事だと話しても誰も信じない。みんな嘘をついたと言って、自分の甥は大統領だと言う。酒の席で一度電話するつもりだから証明してくれ。」
「あ、はい。」
「わあ、甥が検事だから事故をおこしても問題がないだろう。はは、君の名刺あるだろう?一枚ちょうだい。」
ジフンは洋服の内ポケットに手を入れて名刺を出す。ステンレス素材にしゃれたデザインが入ったイタリア製の名刺入れだ。ジフンは万一の場合に備えて持っている別の名刺を出す。機種が変わる前の携帯電話番号が記されている昔の名刺だ。
「子供はまだいないの?」
「家内が妊娠中なので、秋にも生まれるんです。」
「良かったね。そうそう、たくさん生んで、最近は子供の数がその家の経済力じゃないかい。」
午前2時、都会の風景は荒涼としている。タクシーの中は静かだ。ジフンは叔父さんが妻の妊娠と少し前のホテルの前での光景を結びつけるだろうと推測して気が滅入る。打ちひしがれた沈黙が長く続く。ジフンはひょっとしたら自分が無礼に見えるのではないか、目下の人らしく、まず優しい言葉をかけなければならないのではないか、神経を使う。今までは叔父さんが尋ねてくることだけに応えた。 それでも叔父さんなので、ジフンは敢えて勇気を出して近況を尋ねる。
「そういえば、叔母さんはお元気ですよね?」
「・・・」
ヨンデはじろっとバックミラーのジフンを眺める。二人の間に静寂が流れる。車外では、巨大な水槽の中の9900ウォンの中国産ヒラメが体の向きを変える。ヨンデはためらってから生まれて初めて、本当に叔父さんらしい口調で柔らかく返事をする。
「もちろん。」
「結婚式へ行けなくてお目にかかることもできず申し訳ありません。後から知りました。」
「なに、俺も君の結婚の時に行けなかったのだし。あそこで右に曲がるのだよね?」
ジフンは見慣れた所にたどりつくや新たな感慨に浸る。以前はきちんとしていて他の所より価格が高い所。ここで学校に通い、妻と散歩し、ゴミをすて、酔って放尿していた記憶がある。
「あそこの遊び場の前で止めてください。」
ヨンデは手際よく車を止める。ジフンが財布から1万ウォン札2枚を出す。
「いい、いい。1万ウォンだけくれ。」
ジフンは肩をすくめながらヨンデにぺこりと挨拶する。口からふうと息がもれる。
「気を付けて行ってください。」
「入って。お父さんにもよろしく伝えて。連絡するよ。」
ヨンデはだしぬけに車の窓から手を差し出す。運転席から遠いせいでとても窮屈な姿勢だ。ジフンはお尻を突き出したまま手を出して湿っぽいヨンデの手を握った。そうしていい加減に上下に何回か手を振る。タクシーは7団地の入口を抜けていく。ジフンはアパートに入るふりをしながら、素早く花壇の木の陰に隠れる。ヨンデが消えるまで待った。トゴクドンへ戻る計画だ。ヨンデは横断歩道の前で長い信号を待っている。ジフンは木の陰にくっついて、ヨンデが消えるまでぴったりしゃがんでいる。
ヨンデは7団地の近所のコンビニの前で車を止める。甥を降ろしてから煙草を思い出したからだ。運転しながら吸わないこともできるけれど、なぜかそうしたくなかった。ちょうどコンビニの近くに珈琲の自動販売機が目に留まった。交代時間が迫っていたが、今日も前金で支払った納金に達しなかった。ヨンデはミルクコーヒーをだらだら飲みゆっくりゆっくり煙草を吸う。そうこうするうちに、誰かが遠くでタクシーを 捕まえている姿を見る。車が捕まらないのか、寒いからなのか、男はぶつぶつ言っている。素早くUターンすればヨンデが乗せる可能性もある。ヨンデは煙草の火を踏んで消しタクシーに向かう。そうした瞬間、はっとして慌てて路地のなかへ入る。その男が甥のように見えたからだ。ヨンデは街灯一つない真っ暗な路地の中に身を隠す。そして甥が乗ったタクシーが見えなくなるまで長くそこに立っている。
空車タクシーの中で、くるくる回るテープの音が寂しい。 「我的座位在哪儿?私の席はどこですか?(中国語)」ヨンデは餓えた表情で繰り返し聞く。少し前に、ジフンが妻の近況を尋ねたせいでミョンファを思い出した。新婚の始めに、青い車前草のように平凡だった彼女はわめきつつ小さくなっていった。後には羽毛のように軽く感じられるほどになった。彼ら夫婦は病院費を支払うためにチョンセ(不動産を借りる時に一定の金額を預けるので月々支払う必要がない。不動産を返す時に預けた金の全額を返済される。)から月払い家賃に移して、後には旧道のどこかにある棺桶のような小さい部屋で生活しなければならなかった。深夜ミョンファが悲鳴を上げると、隣の部屋から外国語の悪態が聞こえてきた。よくはわからないけれど感じとしては、ベトナムの悪態の時もあったし、バングラディッシュ、あるいはロシアの悪態の時もあった。ヨンデはミョンファが好きだった。そして、できればずっと好きでいたかった。しかし、時にはミョンファも本当に自分を好きなのか疑わしく思われて、耐えられなくなった。親戚たちに門前払いされてから、ヨンデはタクシー運転手たちに借金しに回った。自分なりに親しいと感じてきた人達だった。ある人は避け、ある人は気の毒だと言った。時折舌打ちをして忠告しようとする人もいた。彼女、初めから何か変じゃなかったかい。ビザもないしお金もないし行く所もないし、病気になるからあんたにくっついたのじゃないか。今でも遅くないから別れなさい。ヨンデは彼らから馬鹿扱いされた。始めは話にならない声だと無視したけれども、しょっちゅう聞いていると事実のように感じた。ある日、ヨンデは泥酔してミョンファの首筋を掴んだ。妻の果てしない呻き声と身悶えにくたびれていた時だ。お前、本当に知らなかったのか、全部知っていて嫁に来たのじゃないのか。それでなければお前が俺のような奴とどうして付き合ったのか。俺がそんなに組し易く見えたのか。死ぬなら一人で死ねよ。人の人生を打ちのめそうと言うんだ。目をぎょろぎょろさせて「ちきしょう」「このあま」とののしりもためらわなかったそうだ。ミョンファは何も抵抗も弁明もしなかった。ただおとなしい子供のように無気力にヨンデのズボンの裾に吐いた。ヨンデは我を忘れて「これ、本当に?」と片腕をさっと振り上げた。そうしてそのまま子供のようにおいおい泣き始めた。不明瞭な発音でちきしょう、気違い女、犬のような女を繰り返し、自分を騙した女、利用した女、最後まで純真なふりをしている女、この悪女を生かしたいと思いながら。
ヨンデは彼女が自分を本当に愛していたのか依然として気にかかっている。ミョンファが死んでから、ヨンデは病人の悪臭が残る狭い部屋で何日間もしゃがみこんで過ごした。再び田舎へ行って長兄の工場の仕事でも手伝って生活しようかと思ったけれど、そうはできなかった。かといってソウルに居たくもなかった。1日1日が意味なく過ぎて行った。ヨンデは3日間何も食べず部屋の中で横たわっていた。そしてミョンファの物を整理していて妙な包みを発見した。以前、妻がプレゼントしてくれたものだった。ヨンデは浅い時事常識を使って暇さえあれば、韓国をののしった。いたずらに政治の話をしてお客と口喧嘩をすることも珍しくなかった。ヨンデは知っている人が中国へ行き大金を稼いだというので、自分も中国に行ったらどうだろうかと思った。ミョンファさんと一緒に行けば心配がないと言い聞かせながら、この際俺も中国語でも学んでみようかと心にもないことを言った。ミョンファは目を輝かせながら、本当にと尋ねた。
ヨンデは別に意味なくそうだと言った。ミョンファはヨンデが自分の国の言葉を学ぼうとすることに心から感動している様子だった。彼女は、学ぼうとすればヨンデさんも基本的な言葉をいくつか話せなければならないと、中国語の勉強を勧めた。一番よく見られたい時だから、ヨンデもついうなずいた。そうしたことを忘れてしまっていたが、ミョンファが度々進度を聞いてくるために当惑したことが1,2度ではなかった。しばらくしてミョンファは彼に空のテープをたくさん差し出した。1面に1文章ずつ自分が直接録音したものだと言った。無理に言わずに歌のように聞きなさいと、そのうちに耳が慣れてついていくようになるはずだと、これを全部暗記すれば100文ほどはすいすい朗唱することができるだろうと言った。ヨンデはミョンファの、テープを非常に大切だと思って聞いた。しかし、それも数日だった。結婚後、ヨンデはそんなことがあったことも忘れ、テープを黒いレジ袋に入れて放り込んでおいた。ところが妻が死んで、ふとそれが目に入ってきたのだ。
ヨンデは再び会社に出た。そして出勤時に家にあるテープを一つずつ持って出かけた。テープは順序がめちゃくちゃで無造作に混ざっていた。今日学ぶ文が何かは誰もわからなかった。彼が始めて選んだテープから次のような言葉が流れ出た。
「谢谢你的帮助(中国語)」
ヨンデは無心に真似た。
「谢谢你的帮助(中国語)」
直ちに、ミョンファが韓国語で語った。
「助けてくれてありがとうございます。」
ヨンデもその言葉を真似た。
「助けてくれてありがとうございます。」
テープは同じ言葉を繰り返した。ミョンファが一言言って、ヨンデが一言言う。ヨンデが言えばミョンファが言う。ヨンデは普通にありがとうという言葉を繰り返し真似る。突然ハンドルに頭をぶつけて大通りの片端でわあわあ泣いてしまった。
その後、ヨンデは数巻のテープを聞いた。再见(中国語)。さようなら。ミョンファが一言言うと、再见(中国語)、さようなら、と真似た。今日の天気が本当にいいですね、と言えば、今日の天気は本当にいいですね、と言った。ハンドルを握る手のうえには汗が染み込み続けた。ヨンデは服で掌をしょっちゅうこすった。そんなふうにミョンファと言葉のやり取りをするヨンデの姿はまるで人と全く違うフォークダンスを踊っている少年のように見えた。ヨンデは知っていた。そんなふうに彼女の国の言葉を暗記しながら、自分が徐々に向上していることを。
冬の夜、「空車」灯を点けたタクシーの列が長い明かりを引きずって飛んでいく。個々の事情と話、そして歌を載せた都市の蝶の群れ。ヨンデは客がないか車外をうかがいながら運転する。夜明け頃風が一層冷たくなる。ヨンデはわからない寒気を感じる。昨年雨がすごく降った時に、アップグジョンから仁川空港まで行こうという客がいた。飛行機が直ぐ出発するので最大限速く走ろうと言っていた客。ヨンデは速度を上げて疾走した。ところが奇妙なことにはその日の空港道路に車が1台もなかった。天気は曇っていて暗く、大橋を一つ越えて80キロで走るが、車がふらついた。前もよく見えず、その広い道路に自分が運転するタクシー以外なく、とても恐ろしかった。そして今、ふいに「恐ろしい」という言葉は中国語で何というか気になる。そんな言葉も妻がくれたテープの中にあるかと思って、もしあったらそれを録音する間、その言葉を教えるために妻はそもそも「恐ろしい」という話を何回もしなければならなかったかと思った。自分もやはり何回も繰り返してこそ、暗記できるのじゃないかということだ。タクシーは24時間じゃがいも鍋の店を通り過ぎる。再開発団地を囲う幕と、緑色の灯が点いた夜間診療所、崩れたスタンドとコンビニを通り過ぎる。ヨンデは速度を少し出す。煙草を売る愛玩犬センターが見え、首を切られた頭のような形が陳列された美容機材の店、下着卸売りマートと金物屋が見える。そしてぐるぐる回っていくテープの動き。見る人がいなくてもヨンデはたどたどしく、ぎこちなく中国語を真似る。
「我的座位在哪儿?(中国語)」
―私の席はどこですか?
テープががちゃんと音を立てて自然に裏面に移る。短い間、ミョンファの声が聞こえる。
「离这里远吗?(中国語)」
―ここから遠いですか?
ヨンデは小さく「离这里远吗?(中国語)」とつぶやいてからアクセルを踏む。冬の夜、誰も気にしない約束のように、木の枝にぶら下がっている最後の銀杏数粒がたった今通り過ぎたタクシーを見下ろしながら、落ちることも腐ることもできずに体を震わせている。(終わり)