映画『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督の中から)拾ってみる。
「お父はん、針仕事習って上手になれば、いつかは着物や浴衣を縫えるようになるんだろ?うんだば、学問をしたら何の役に立つんだろ?」
「学問は針仕事のようには役にたたねえかもよ。学問をすれば自分の頭でものを考えることができるようになる。考える力がつく。この先世の中がどう変わっても、考える力を持っていれば何とかして生きていくことが出来る。これは男の子も女の子も同じことだ、わかるか?」物事を深く知る方法は、学問によって得る。ところが昨今は学問を役立たないとして軽視する風潮がある。特に人文科学系の知識は、趣味扱いされ、評価基盤を失いつつある。 「役に立つ」という評価を得たものしか研究対象としない昨今の合理主義(営利主義といってもいい)は、学問などは無駄だ、針仕事を覚えなさい、ということに奇妙に共通している。
昨今までは女子に対しては上流家庭での家庭教育において良妻賢母が、下流家庭では女工か下女になって、良い縁談を待て、というような扱いだった。1964に、某社に就職した私はその会社が、18歳で入社した女子社員に見事なほど、その時代の世間の常識にしたがって女子を扱っているのを見た。女子達は恐ろしく低賃金で、おとなしく、掃除、お茶くみ、コピー、少し高級なのはタイプとかテレタイプ、受付、秘書などで、多くは暇を見つけてトイレでのおしゃべりで時間を過ごし、定時に退社していた。男達は、彼女達を子供のように扱い、責任ある仕事を分担させることは全くなかった。これが当時の女子達の社会参加の一面だった。彼女達のほとんどは21-2歳までに大体結婚退職するのが普通だった。彼女達が受けてきた高等教育は社会でどう生かされたのであろう。
いわゆる大会社の中での女性参加がこの程度であったと言えるが、その他の社会、たとえば農業、漁業、自営業、中小企業ではどうだったのか。、
安倍達は女性が輝く時代をと呼号しているが、一体どう輝くのか?人文系の素養を削れば、女性にそのチャンスを与える事が出来ないだろうし、世界を見る視野が広がらないし、世界と競争する、そして勝ち抜くための女性力を、というのならば、語学力はもとより、歴史、文学、哲学、芸術など、広い、時間がかかる領域に女性が参加し、才能を磨く機会を与えなければとうてい不可能だろう。
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