よくもまあこんなに緑を剥いだものだと目を剥いた。グリーンピースの一球を緑の点とすると、この地域は、グリーンピースが申し訳程度に3つか4つ散在しているだけで、後は、ずらっと住宅、住宅、住宅、マンション、マンシヨン・・・。これでどうして緑区なの?昭和の40年代から50年代にかけ、東急田園都市線はむちゃくちゃに開発が進んだ。自由が丘を出ると、二子多摩川に至る。問題はその先、多摩田園都市やら港北ニュータウンやらの名前の付いた町々である。想像するに、この一帯は、緑が鬱そうとした里地里山の田園地帯であった。それが数十年たって、コンクリートジャングルに変じてしまった。水や緑のにおいのしない田園都市、緑区、青葉区・・・惨状である。降りた駅に隣接している東急系スーパーに入り、コーヒーを一服。寒いので暖を取りトイレ休憩。校長や父兄たちにどんなお話しをしようかなと構想を練った。コーヒーコーナーに座っていると、目の前を忙しく行き交う買い物客のワゴンに出会う。生鮮食品、加工食品、惣菜類、海鮮魚肉類、野菜類、この店を一巡するとワゴンはすぐに一杯になり、欲しいものはあっという間に手には入ってしまう。この便利さと手軽さ、これこそ都市の快適性である。これこそ幸せの極致である、と豊かな社会を目指して生きたわれわれは思い、せっせと働きそれを実現させた。気のつかないことだが、緑を奪われたことの反対給付として手に入れた快適さである。
各家庭には、皆大きな冷蔵庫がある。この冷蔵庫には、ジュースやらミルクやら、ヨーグルト、アイスクリーム、プリン、豆腐、みそ、納豆など、冷凍庫には電子レンジでチンとすればほかほかのコロッケやらミンチやら餃子やらがふんだんにある。こんな消費生活の中では、こどもたちは苦もなく食物を手に入れることが出来るわけである。朝から晩まで手を伸ばせばいくらでも好きなだけ美味しいものを口に入れることが出来る。好き嫌いは言い放題。残すも残さないも随意、食物というものは、リスクを犯して、時には戦争をして、奪ってくるものだという歴史的事実の断片すら示せない。こんな生活をしながらこどもたちに「農業の大切さ」や「食べ物の大切さ」を説いても意味がない。親たちが手に入れた快適な消費生活はこどもから見れば、反教育、反食育の現場なのである。こんなことを思いながら教育現場の校長先生と主婦3名、町内会長2名と懇談した。私はこう切り出した。「いまもっとも大切なことは大人からこどもに、明るい話題、健康な話題、そしてコミュニケーションのチャンスを与えることだ。今の世の中は暗いことが多いがそれはこどもの責任ではない。」この点については皆さんは大きく頷いてくれたが、実際はどうしていいかわからないと次の言葉を待った。校長は言った。「トマトの情報を有り難うございます。当然興味があります。親子、地域と学校の対話を進め環境教育を進めて参りたいので、トマトの
苗を頂いて、みんなで育てたい」、私は野菜を作ることが教育にとってすばらしい意味を持っていることを次のように申し上げた。「一緒にタネを撒き、育てる、出来たものを頂く・・・こうしたことを親子で、家族でやる。同級生とかご近所とかも加われば明るい話題が出来る。この仕掛けを、作るのです」母親たちも大きく頷き、熱心にメモを取ってきたが、ある母親がこういった。「トマトの苗代、土代、プランター代など、私どもには予算がありません。関心があるんですが・・・」。すかさず私が反応した。「ということは、わたしに全部出せということですか?」露骨な言い方ではなかったが、私はあなたがたに、何ごともタダでプレゼントをする奇特な人ではないよという意味を申し上げた。あの人たちは永年の習性で何でもお金で手に入る、トマトだってそうだ、呉れるというのならもらってやっても良いという気持になっている。それで癒しだの食育だの環境教育だの、恥ずかしい限りである。何が環境ボランチアか?何が食育か、この人たちは、その本質をまるで分かっていない。
各家庭には、皆大きな冷蔵庫がある。この冷蔵庫には、ジュースやらミルクやら、ヨーグルト、アイスクリーム、プリン、豆腐、みそ、納豆など、冷凍庫には電子レンジでチンとすればほかほかのコロッケやらミンチやら餃子やらがふんだんにある。こんな消費生活の中では、こどもたちは苦もなく食物を手に入れることが出来るわけである。朝から晩まで手を伸ばせばいくらでも好きなだけ美味しいものを口に入れることが出来る。好き嫌いは言い放題。残すも残さないも随意、食物というものは、リスクを犯して、時には戦争をして、奪ってくるものだという歴史的事実の断片すら示せない。こんな生活をしながらこどもたちに「農業の大切さ」や「食べ物の大切さ」を説いても意味がない。親たちが手に入れた快適な消費生活はこどもから見れば、反教育、反食育の現場なのである。こんなことを思いながら教育現場の校長先生と主婦3名、町内会長2名と懇談した。私はこう切り出した。「いまもっとも大切なことは大人からこどもに、明るい話題、健康な話題、そしてコミュニケーションのチャンスを与えることだ。今の世の中は暗いことが多いがそれはこどもの責任ではない。」この点については皆さんは大きく頷いてくれたが、実際はどうしていいかわからないと次の言葉を待った。校長は言った。「トマトの情報を有り難うございます。当然興味があります。親子、地域と学校の対話を進め環境教育を進めて参りたいので、トマトの
苗を頂いて、みんなで育てたい」、私は野菜を作ることが教育にとってすばらしい意味を持っていることを次のように申し上げた。「一緒にタネを撒き、育てる、出来たものを頂く・・・こうしたことを親子で、家族でやる。同級生とかご近所とかも加われば明るい話題が出来る。この仕掛けを、作るのです」母親たちも大きく頷き、熱心にメモを取ってきたが、ある母親がこういった。「トマトの苗代、土代、プランター代など、私どもには予算がありません。関心があるんですが・・・」。すかさず私が反応した。「ということは、わたしに全部出せということですか?」露骨な言い方ではなかったが、私はあなたがたに、何ごともタダでプレゼントをする奇特な人ではないよという意味を申し上げた。あの人たちは永年の習性で何でもお金で手に入る、トマトだってそうだ、呉れるというのならもらってやっても良いという気持になっている。それで癒しだの食育だの環境教育だの、恥ずかしい限りである。何が環境ボランチアか?何が食育か、この人たちは、その本質をまるで分かっていない。
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