田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

150810 「えっ?知らないの?」と言われて・・考えた

2015年08月15日 10時15分04秒 | 時評

 リタイアーして私は、専門から離れ、これまで見向きもしなかったあれこれに接することができるようになった(ように思う)。私はあれこれのグループに顔を出し、多種の情報に接し、時々新鮮な思いを味わっているが、同じく時々不快になることがある。

それは 「えっ?知らないの?」とあきれられる時である。そんなの常識でしょ?という侮蔑か、いま教えてやったじゃないかという含みがある。これを言われると、知りたいという意欲がひどく削がれ、あらためて訊くことを恥ずかしく思い、その後落ち込んでいくのである。

人間は専門外のこと、興味を持っていなかったことについては知らないのが当たり前で、だから学ぼうとしてサークルに入る。初心者は教えられても聞き漏らし、見逃すことが多いのである。音楽のこと、文学のこと、語学のこと、歴史のことインターネットのこと、アニメや映画のことなど途方もない情報空間にリタイヤ-後の我が身をさらして刺激を求める自分に「えっ?知らないの」と言われるとショックが走る。知りたいと思って参集しているのに、いただいた情報を組み立て、自分なりの知識にしようとしていることに対して馬鹿にされることは堪えられないことである。そこで知ったふりすることは、自分を帰って閉じもめ、苦しめることになるのであらためて訊こうとするがつい億劫になることも多い。

 

そこで思い至ったのは私の学歴(というよりも教育を受けて来た歴史)においては、何かにつけて競争意識に苛まされ、「知らぬは恥、知らぬは努力不足、知らぬは能力不足」という暗示に支配されていたという事実である。

考えてみれば、受験競争のテクニックが本当の学力から遠ざけられているような気がする。テストなどで知識として吐き出す量の多寡、特に教わった一定範囲の情報をどれだけ正確にして的確に記号としてアウトプットできるか否かが学力とされている。教わったことを理解できない、理解の努力過程にあるために知識として吐出できない、これも知らないということはどうして恥なのだろう。知らぬは努力不足の結果とは限らない。学校では知識の量、それも一過的に仕入れた知識(というより言葉)の量が成績として表される。そしてそれが能力の量として評定される。学校におけるこのような評定システムは、教える側にとっては効率的かもしれないが、教わる方にとってはいじめになるのではないか?もちろん知っていることによる尊敬を努力の結果という尊敬として表彰することは良いことだろう。しかしどのような分野、対象でも知らないことをもって、格差をつけて侮蔑したり人格を傷つけたりすることは絶対に許されない。

 

「私は知りません」と堂々と言える人こそ、私は尊敬に値すると思うこの頃である。知らないという事実に発して、自分の知ろうとするという目標プランを立て、それに沿って努力をするという道を作れば立派な主体性である。事実を隠したり、知りませんということで何かの不都合を隠したりする言いぐさはもちろんけしからんことで、非難されることではあるが。そのことから更に次のことを思う。「私は知りません」ということで、その人が知識を得ることを助けるという環境こそが大切ではないかと言うことである。本来教室というところは、素直にそれらの表現ができ、助け合う人間関係が生まれ、育つところではないのだろうか?


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