ところで私にとって五感が働いているのは土をいじっている時のような気がする。特に農地に入り、作物をいじり、時として空を見ながら肉体を動かしている時、自然を感じる力=五感はフル稼働しているように思う。きっと、身体の生物的なリズムと農業の労働が同調しているのだろう。五感ってなんだろうか?五感って「役に立つ」のだろうか?第六感という言葉もあるくらい、感性とは特定できるものでなし、科学が取り組む対象にしつらいと思える。
最近、小学4年生の少女の詩集を手に入れた。散歩友達が私にプレゼントしてくれた。この子は残念なことに16歳で事故死してしまったが、子供の目に見える自然が生き生きと詩にあらわされている。
こんにちは/降ってきた雨に/ごあいさつ
夏の夜は/すだれ通して/月見かな
夏の朝は/水が草木の朝ごはん/早く咲いてね/水引さん
草木たちの/昼のごはんは/日の光/ちょっとまぶしい/昼ごはん
夕御飯は/もう一度水
草木たち飽きないのかな/水ばかり
ヤマトシジミは今日も舞う
連れ合い探してどこまでも
重々しく慎重に/時が過ぎていく
振り子が揺れている・・時
それは誰にも追いつかせず
誰にもさかのぼらせず
誰にも止まらせず
誰にも早くできず
遅くできない
・・・
(堀明子詩集 「四季の色」より、小学3-4年時の作)
当たり前だが命は命から生産される。ヒトなら懐妊して十月十日。その過程での時間が割り当てられ、母体の中で丁寧な進化のプログラムが手を抜くことなく進行する。
命の生産は、都合によって延長もしたり短縮をしたりすることはない。これが 農業になると、意識して自然を遠ざけて、生産量とコストを競う。人間が、追い求めるスピードと効率は人間と人間との間の競争(市場競争)に勝つためである。エリートたちは食料という命はもしかして工場でも生産できるのではないかと錯覚することがある。植物工場、遺伝子組み換えなんて、いかにも自然と離れた環境で、命の生産ができると。それはほんとうは錯覚で、その錯覚がさらに大きな錯覚の導き手になる。
農薬にまみれた野菜、食品添加物の高投入の加工食品、横溢する遺伝子組み換え食品は、この少女の自然から学んでいく成長にとってどんな意味を与えられるのか。
静かに自然に向き合い、命がリズムを刻んでいく場所に自分を置くと、五感が磨かれるようになり、きっと効率以外の自然の贈り物を得ることができるに違いない。それは健康かも知れないし、芸術かも知れないし、友情かも知れないし、恋愛かも知れないし、・・・。
現代は人間の知性と知識を絶対視するために、自然からは功利的なものだけを奪おうとするようになり、自然との深い交渉をしている人たち(農家だけじゃない)を遠ざけたり、無価値として切り捨てたりしていると思われます。
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