風の音がした
ふり向くと誰もいない
18歳のぼくが
町を出ていく靴音だったかもしれない
いつも素通りしていた
その古い家の門から
いつかの誰かの
なつかしい声が聞こえた
耳のふちを流れる
細い水路のせせらぎ
敷石を踏む下駄のひびき
すべてが風の音階になる
ひっそりと暗い
かまどのある台所の連子窓
階段をおりて手水へとよぎった
風を連れるひとのかげ
あおじろい顔の青年が立っている
23年の短い生涯の
3年だけこの家に
彼はいた
彼がきいた音がある
彼がつくった音がある
その音は
いまも消えない
15歳で上京
東京音楽学校を首席で卒業
ドイツに留学したが病んで1年で帰国
日本のシューベルトはシューちゃんと呼ばれた
シューベルトの風がながれる
隅田川の春をうたった
新しい風の音を告げて
みじかい季節を光で満たした
お母さん泣かないで下さい
ぼくには自分の寿命がよくわかる
ぼくの曲が歌われるかぎり
ぼくは生きているのですから
汽車から降りたつと
ホームに「荒城の月」が流れる
彼の家をはじめて訪ねた夏
ぼくもとうとう旅人になった
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* 滝廉太郎の旧宅をたずねて。
(2008)