ああ春だなあと、春をつよく感じるのは、懐かしい花の香りに出会ったときかもしれない。
歩いていると風の淀みに、覚えのある香りが漂っている。どこかで沈丁花の花が咲いているようだ。いまはしっかりと、その花の名前も知っている。
子どもの頃の記憶にも、同じ香りがあったことを覚えている。
ぼくはそれが、春先の川から立ちのぼってくる、水の匂いだと思っていた。すこし暖かくなって、水辺が恋しくなる頃だった。
大きな岩の上から釣り糸をたれる。岩から顔だけ突き出して、水底を覗く。水ははっきり底が見えるくらい澄み切っている。魚の姿もみえるが、餌には寄ってこない。
じっと水底を眺めていると、ひんやりとした水の冷気に混じって、甘い香りが顔を包んでくる。それが水の匂いだった。
ぼくの小さな世界に、まだ花というものはなかった。だから、その香りの元が花であるとは思いもしなかった。その季節だけ、水から立ち上ってくるものか、あるいは風の匂いだろうと思っていた。春の匂いといってもよかった。
川のそばには、五軒ほどの集落があった。あちこちで清水が湧き出していた。家と家の間に細い水路があり、流れはそのまま川に注いでいた。
いとこの家があった。K先生の家と、同じクラスのE子の家があった。国語の時間、E子はまっ先に手を上げる。E子の答えは、字引の文章をそのまま読み上げているようで、聞きなれない言葉が多くて、ぼくにはよく理解できなかった。
大きな岩の上で、いとことふたりで黙って釣りをする。彼は釣り以外には興味がなかったので、ぼくらの会話はあまり進まなかった。
ぼんやり釣りをしながら、ぼくはひとり空想にふける。まわりに漂う甘い香りを、E子の気配のように感じたりするのが楽しかった。
彼女はあまり家から出てこなかった。釣りばかりしているぼくのことなど、軽蔑しているにちがいないと思った。思えば思うほど、しだいに彼女と口が利けなくなり、疎遠になった。
高校生になったとき、集落の近くにダムができた。
五軒ほどの家はすべて移転させられ、集落は川の底に沈んだ。
沈丁花という花のことを知ったのは、それからずっと後のことだった。ぼくが川の匂いだと思い込んでいたものは、沈丁花の花の匂いだったのだ。
その花はたぶん、E子の家の庭に咲いていたのだろう。
水の底に、沈丁花は沈んた。
水草の清流も沈んた。
あの大きな岩も、大きな頭の魚も沈んた。
そして春の匂いだけが、残った。
僕の詩も読んでいただいて、ありがとうございました。我流で、拙作ですが、よろしくお願いいたします。新作を、毎日一篇、午前10時前後に投稿しております。また、私の詩の解説も始めました。併せてご覧ください。
末永いお付き合い、よろしくお願いいたします。
コメントありがとうございます。
毎日一編の詩作とは、ずいぶんハイペースですね。
がんばってください。