春の水は、濡れているそうだ。
水に濡れる、ということはある。しかし、水が濡れているというのは、驚きの感覚だった。
次のような俳句を、目にしたときのことだった。
春の水とは濡れてゐるみづのこと
これでも俳句なのかと驚いたので、つよく記憶に残っている。
たしか作者は、俳人の長谷川 櫂だったとおもう。水の生々しさをとらえている、と俳人の坪内稔典氏が解説していた。「みづ」と仮名書きして、水の濡れた存在感を強調した技も見事だ、と。
そんなことを思い出して、今朝はしみじみと池の水を見た。
日毎に数は減っているが、あいかわらず水鳥が水面をかき回している。池の水がやわらかくなっているように見えた。池面の小さな波立ちも、光を含んで艶っぽい。真冬の頃のように、冷たく張りつめた硬さはない。
水が濡れる、という言葉がよみがえってきて、こころなしか、水が濡れているように見えた。新しい知識は、物の見方も変えるようだ。
娘がまだ小さかった頃、涙が濡れる、と言ったことがあった。言葉をまだ十分に会得してないせいで、そのような表現をしたのだと思った。
そのとき、娘の目からは涙が溢れそうになっていた。娘は自分の涙に戸惑っているようにみえた。それまでは、泣くということは、不服だとか悲しみだとか、ただ何かを訴えることだったのだ。
だがその時は、今までとは違う、なにかよく解らない感情に突き動かされているようだった。体の深いところから、水のように湧き出してくるものを、娘はどうしていいのか解らないようだった。
涙が濡れる、は娘の戸惑いから咄嗟に生まれた、まだ未熟な言葉だったのだろう。水が濡れるという言葉とかさねて、そんな娘の幼い言葉が、新しい意味をもって思い返された。
きょう、春の水に指を濡らしてみた。まだ冷たい。