母親は息子に、ときどき話をしていたのだろう。
象や縞馬や、ほかにも、いろいろな動物たちがいる公園のことを。人間が作った動物たちは、いつまでも動かずにじっとしているということを。
母親が子どもだった頃も、そして今でもきっと、そのままの公園が街のどこかにあるということを。
ある日、少年は突然、夢の公園に行きたいと言いだした。
え、どこに、そんな公園あるの? と母親。
ほら、いつも話している動物のいる公園やんか。
そこで父親の休日に、親子3人で夢の公園に行くことになったそうだ。
母親というのは、ぼくの娘のことである。
夢の公園の話は、妻が娘から聞いて、その又聞きでぼくの耳に入ってきたのだった。
娘がまだ子どもだった頃、ぼくたちが住んでいた街区の、山林を残した一角に小さな公園があった。滑り台などの遊具はなくて、コンクリートで動物を模造したものが、いくつかランダムに配置されていた。ぼくはもう、そんな公園のことなど忘れていたのだが、子どもたちは、そこを動物公園と呼んで遊び場にしていたのだった。
夢の公園と聞いて、ぼくも急に行ってみたくなった。
少年がまだ行ったことのない、話だけで聞いて想像していた公園は、たしかに夢のような公園だったかもしれない。どうじに、長いあいだ忘れていたぼくの記憶の中の公園も、まだら模様の夢に似ていて、すき間の部分に懐かしさが詰まっているような気がしてきた。
すべての設定が昔に戻る夢を見ることがあるが、ふと、そんな感慨に誘われたのだった。日常でもまだ夢が沢山あった頃の、そんな夢の跡を見にゆきたくなったのだつた。
記憶の中にあるものよりも、現実の公園はだいぶ小さくなっていた。まわりの樹木が大きくなったせいかもしれない。
動かない、石のような動物たちはいた。
どれもはっきりとした記憶はないけれど、子熊だけが1匹でぽつんといる光景は見覚えがある。象も縞馬もカンガルーもつがいなのに、子熊だけがひとりぼっちだったからか、あるいは子どもたちのお気に入りの子熊だったのか、なんらかの印象に残る親しさがあったのだろう。
近づいてよく見ると、どの動物も薄汚れて傷だらけだ。それだけの長い歳月のしるしを背負っているようにもみえる。
子どもたちが野球をしていたので、ぼくはできるだけ離れたところのベンチに座り、怪しいおじさんだと警戒されないように、ひとりでのんびりと菓子パンをかじったりしていた。
ふと気づくと、近くの象の背中の上に女の子の顔があって、じっとぼくの方を見つめている。やはり怪しまれているのかといっしゅん戸惑ったが、女の子はぼくと視線が合うのを待っていたように、こんにちはと言って笑顔になった。
ぼくは虚をつかれて、それでもこわばった笑顔になりながら、こんにちはと応えると、
「おじさん、このへんにヘビいてますか?」と聞いてきた。
「ヘビ? たぶん、ヘビはまだ冬眠中やから、いないと思うよ」
そう、ありがとう、と言って女の子はみんながいる方へ走っていった。
向こうでは、女の子がみんなに何かしゃべっている風で、そのあと、いっせいに子どもたちの視線がぼくの方を向いた。
きっと、女の子がヘビのことを報告したのだろう。
打ったボールが、しばしば深い草むらに飛び込むので、子どもたちはヘビのことが気になっていたのかもしれない。
そのあとも、子どもたちの球技は続いた。
ボールを打ち返す音や甲高い声が、石の動物たちの背中を飛び越えてくる。
いつのまにか子どもたちの仲間になったように、その場所になじんでしまったぼくは、夢の中に入ったり出たりしている気分だった。過ぎた歳月と歳月のすき間には、いくつも夢のようなものが挟まっていたのだ。そのひとつひとつを掘り出してみる。
地中では、冬眠中のヘビが長い夢から引き戻されて、ぼちぼち目覚めの準備をしていたかもしれなかった。