浮浪者のことを、九州では「かんじん」と言った。
今ではもう聞かれないかもしれないが、ぼくが子どもの頃には、その言葉はまだ生きていた。
そして今も記憶に残る、ふたりのかんじんがいた。
ひとりは女のかんじんで、おタマちゃんと呼ばれていた。
おタマちゃんは、汚れてボロボロの着物を重ね着していた。当時は子どもたちも貧しく汚い服装だったから、おタマちゃんが特別だったわけではない。ただいつも大きな風呂敷包みをぶらさげていて、まるで着物と風呂敷包みが歩いているようなのが異様だったのだ。子どもたちがからかうと、真剣に怒って追いかけてくる。足はそんなに速くないので、追われて逃げ惑うのも、子どもたちには遊びのうちだった。
手をぶらぶらさせて踊るような仕草もしていたから、すこし気が触れていたのかもしれない。おタマちゃんがどこから来てどこへ行くのか、だれも知らなかった。
もうひとりは男のかんじんで、水島将軍と呼ばれていた。
彼はらい病に罹っているという噂で、足を引きずるようにしてゆっくり歩いていた。子どもたちがからかっても、そんな声など聞こえないように無視していた。およそ将軍らしい身なりでも風貌でもなかったけれど、大人たちがいうには、彼はかつては軍人だったらしい。彼もまた、どこから来てどこへ行くのか、だれも知らなかった。
いま考えてみると、ふたりのかんじんに親しげな名前がついていたのが不思議だ。
彼らは物乞いをしていたわけではなかった。住まいがあるのかどうかも分らなかったが、ふたりとも周りの大人たちとは違っていた。だがらやはり、そんな大人はかんじんなのだった。
かつて田舎の道路は、子どもたちの遊び場だった。とつじょ遊び場に侵入してくるふたりのかんじんは、子どもたちにとっては排除すべき異質な人間なのだった。子どもたちがテリトリーを争えるのは、かんじんしかいなかったのだ。
ほかにもかんじんはいたのに、ふたりだけに名前がついていたということは、やはり特別なかんじんだったのだろうか。名前があるということは、それを知る大人たちの近くで、かつては普通に生活していたのかもしれなかった。彼らはある時から、大人たちの世界を抜け出していった人だったのではないか。あるいは脱落した人たちだったのではないだろうか。おタマちゃんは気が触れたことで、水島将軍はらい病に罹ったことで、かんじんへの一歩を踏み出してしまったのではないだろうか。
現代のホームレスを、かんじんと呼ぶひとはいないだろう。彼らも日常の生活からドロップアウトした人たちではあろうが、現代の社会の仕組みから、運わるく不可抗力で弾き出されてしまった人も多いからだ。
おどま かんじん かんじん
あん人たちゃ よかし(衆)
『五木の子守唄』のかんじんは、乞食でもホームレスでもなく、ただ貧乏であるということだ。現代でも貧富の差というものはあるが、昔はかんじんとよかし、貧しい人と富める人とは、はっきり分かれていたのかもしれない。貧しいということはカネがなくモノもないという、ただそれだけのことだったのだ。
現代では貧乏でも、日常着るものや食べるものまで窮している人は少ないだろう。けれども貧しそうにみえる人は多い。こころが貧しいのだ。こころがかんじんなのだ。まわりの生活が眩しすぎて、まわりの人々が「よかし」ばかりにみえてしまう。
ぼく自身もまた、現代のかんじんのひとりかもしれない。
ぼくの魂は貧しく放浪しつづける。汚れた服をそのまま着つづけて、たぶんボロボロになっているのだろう。知らず知らず背中を丸めて、小さくなって歩いているのだろう。
それでも、かんじんだとは誰からも呼ばれない。子どもたちにからかわれることもない。道路はすっかり車に占領されてしまい、もう道路で遊ぶ子どもたちもいない。
かんじんはさみしい。
何のことか、深く考えることも無く今まで生きて来て、この度、初めて知りました。
「あん人たちゃ よかし」の本当の意味は、まだ良く分かりませんが、
そう言った人たちでも社会の中で排斥されずに生きて行かれた時代だったのですね。
私の子供も頃にも、名前を持った「かんじんさん」がいました。
同じように、子供たちがからかうと追いかけて来るので、それを子供たちは楽しんでいました。
それでも、今の心無い若者がするように石をぶつけたり、
棒で叩くことなどしていませんでした。
社会全体が一種の憐みをもって見ていたように思います。
この歌の本意もそういったものなのでしょうか。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
肥後弁では良いことを「よか、よか」と言いますね。
「あん人たちゃ よかし」の「よかし」は「良か衆」で、良い暮らしをしている家の人たちのことでしょうか。
「よか衆よか帯 よか着物」と唄われる民謡からは、貧しい小作人の娘が裕福な地主の家の子守奉公をしながら、よか衆の暮らしぶりを羨んでいる様子がしのばれて哀れです。
小作人は平家の落人、地主は落人を監視する源氏の武者たちだったとも言われています。
五木村は、九州の中央部の山深いところですが、子守唄が生まれるほどのドラマがあったんですね。
とても悲しい歌ですね。
お写真のお雛様が素敵すぎて・・・
コメント、ありがとうございます。
竹のお雛様は、
古い武家屋敷の門前に飾られたものです。
竹筒も年季が入ってますね。