春浅い川の水面は静かに澄みきっている。
岩にくっついた川ニナは水垢を被ったままだし、ドンコの子は砂地にはりついて動かない。明るい陽ざしが川底の石の影までくっきりと見せている。
やがて吹き荒れる春の嵐に水面は騒ぎ始め、川は目覚める。魚たちは温んできた流れに不吉な予感を覚え、岩陰を求めて激しく鱗を散らすだろう。
雨が降り続くと、山や田圃から溢れてきた濁流で川は混乱する。魚たちは木の枝や葉っぱや草や虫や、外界のさまざまなものにもまれて厳しい洗礼を受ける。川は肥沃な流れとなり、どん欲な魚たちは丸々と太るだろう。
やがて初夏の太陽のもとで魚たちは狂い、浅瀬は朱に染まる。鉤針に釣り上げられる魚の腹や鰭は、婚姻色で花びらのように美しく燃えている。魚は背びれを激しく水面で振るわせながら、いたるところ白い精液を放出し、白濁した川は祭りのように狂乱するだろう。
僕は着ているものを脱ぎ捨てて川に入る。
最初は恐る恐るしずかに、そして思いきって荒々しく。全身を締め付けてくる水の冷たさをはねのけるように、両手を大きく広げて水をかき、両足に力をこめて水を蹴る。呼吸をするために大きくあけた口の中に、層をなして水と空気が流れ込んでくる。喉から鼻の奥へとひろがっていく水の刺激が、忘れていた感覚を呼び出してくれる。草の根の匂い、岩ごけの匂い、瓜や西瓜のような甘い匂い、魚たちの柔らかい腹わたの匂いとともに。
生まれた川に帰ってくる魚たちのように、僕の本能もすこしずつ新しい水になじんでいく。指の先に柔らかい鰭が生え、僕の飲み込んだ水は耳のエラに漉過されて、次第に体中に染み込んで行く。川の水の一部分だった僕の体は、しだいに川の流れと一体になっていくようだ。
僕は水中に潜る。どっと湧きおこる細かい気泡に眼がくらみそうになる。さらに潜ると、川の水に同化したはずの僕の体は、今度は水の強い抵抗を受けている。視界の中に魚たちの姿は見えず、僕はただ一人きりになってもがいている。急に不安になり、ガラス板のような水面をめがけ水を蹴って浮き上がる。いっしゅん水色の空が飛沫となって弾ける。 (完)