メディア政策:新政権に望む 「表現・報道の自由」規制、デジタル社会、そして・・
1999年から続いた自民、公明の連立政権下では、個人情報保護法の制定をはじめ、「表現・報道の自由」への規制が強まった。この約10年は、インターネットなど本格的なデジタル社会の到来で、新聞事業が大きく揺さぶられた時期とも重なる。衆院選(30日投・開票)で誕生する新政権に望むメディア政策について、ジャーナリストの原寿雄氏、服部孝章・立教大教授、音好宏・上智大教授の3人に聞いた。【臺宏士】
■新聞への公的支援論議を--ジャーナリスト・原寿雄氏
インターネットの普及によって、読者離れと広告離れが深刻化し、いまのままでは日本の少なくない新聞が廃刊や経営規模の縮小を迫られるのは必至だ。不動産収入や映画製作への参加など本業以外をみても、新聞を支えてきた購読料と広告料に代わる収入源は見つからない。
米国ではより深刻で、1紙しか残らない地域も増えているようだ。インターネットは、オピニオンを飛躍的に発展させたが、その基礎となる「事実」は、自分の仕事や趣味の情報にとどまるというパーソナルメディアとしての限界がある。一方、新聞ジャーナリズムは、公器として権力の監視や社会正義の追求をはじめ公共的な情報をいち早く豊富に安価で提供してきた。恒常的で組織的な取材、調査・分析力。そして、特定の利害に左右されない道義性の高さを肩代わりできる媒体は、当面ほかに見当たらない。
廃刊相次ぐ米国では公権力を監視する力が弱まりかねないという声が広がっている。連邦議会では、新聞の再編を容易にするための独占禁止法の緩和やNPO化による税制上の優遇措置などが論議され始めた。欧州では新聞の公共意識が強い。言論の独占を避け、多様性を重視する観点から、スウェーデンでは弱小新聞への助成策があり、仏では税制上の優遇に加え新成人への新聞の1年間の無料配布も打ち出した。
民主主義社会ではジャーナリズムが不可欠だ。日本では社会文化政策として新聞ジャーナリズムの公的な支援論議はほとんどされてこなかったが、いまこそ始める時ではないか。再販制度や特殊指定制度は、新聞事業を維持するために、その意義が一層強まった。
欧米の政策を参考にした税制上の優遇や、教育文化政策の一環として、ジャーナリズムの社会的な重要性を学ぶためのカリキュラムを強化したり、義務教育が修了する15歳を機に新聞の1年間無料配布を検討してもいい。年500億円で足りよう。
新政権をはじめ各党は、社会政策としてメディアのあり方を考える担当を設けたらどうか。新聞界も、経営合理化の徹底や紙資源の保護を含む販売面の刷新、調査報道の充実、取材報道倫理の向上など、新聞が民主主義社会に不可欠な存在であることを証明する努力がもっと必要だ。
(続きあり) 毎日新聞 2009年8月24日 東京朝刊http://mainichi.jp/universalon/clipping/archive/news/2009/08/24/20090824ddm012040004000c.html
「自公政権の10年、報道機関については、個人情報保護法(03年成立)などメディア規制色の濃い法律が相次いで成立したことの影響が大きい。」
なぜこれほどまでにマスコミが、安倍政権、麻生政権など自民党を目の敵にして攻撃してきたのか? なるほど、そういうことだったのですね。この記事を読んで合点がいきました。この毎日記事では、「お仲間」ジャーナリストや学者がいろいろと得手勝手な理屈を並べているが、要するに、マスコミ側は自民党のメディア政策を気に入らなかった、ということらしい。
そしてここにきて、原氏は新政権に、新聞に公的支援をせよと、はやくも”おねだり”をしている。「年500億円でたりよう」と。・・・・(エゴ丸出し。それに、この薄気味悪い高飛車さ。マスコミ人の奢りとでもいうのでしょうか)
「特定の利害に左右されない道義性の高さ」・・新聞が?ちゃんちゃらおかしい。(毎日新聞のあり得ない不祥事こちら) マスコミは「自分の利害」と「特定の利害」に奔走しっぱなしではないか。 マスコミの自民党へのネガティブキャンペーンはすさまじかった。今のマスメディアは「公平中立性」などからは遠く離れた、少数の独占的な利権団体である。彼らは報道を手段にして、自分達のために「必要あり」と思うところに、恣意的にその力を振るってきた。 この巨大な力をもってすれば、政府であろうと誰であろうと叩き潰されてしまう。マスコミはその力を使って、自らの利益や目的のために、「国民のためのものであるはずの政治」に影響を及ぼそうと企てている。なんと恐るべき組織群ではないか。 (マスコミは、自身の巨大な影響力をよく知っている。裏を返せば、「報道」を握っている者が「誰か」ということは”重大”だと思う)
マスコミ的には、やっと自公政権を追い詰めて、公金を合法的に手に入れる一歩手前までこぎつけた、というところなのだろう。