詩歌探究社 蓮 (SHIIKATANKYUSYA HASU)

詩歌探究社「蓮」は短歌を中心とした文学を探究してゆきます。

生業と短歌のリスク対応。

2020-06-26 12:24:58 | 千駄記


今朝は涼しかったのですがぐんぐん気温上昇中です。

製作途中の製品で変更図がきたり、
修正図を待ったりしています。
そんなことをしている内に週末です。
今月は30日までしかないからあっという間に月末です。
この週末はどうしてくれようかと思うわけですが
天気はあまり良くないようです。
ま、なりゆきです。

次の週末7/4(土)は池袋で十月会の役員会があります。
会議室を借りて、次期の役員や委員のことや今後の例会のことを話し合う。
グループメールのやり取りを傍観しながら
「それまでして、例会を復活させる必要があるのか」と思ったのです。
私はコロナウイルスを極端に恐れて引き籠るべきではない
という考えの持ち主です。経済優先、命より金ですから。
正直、私にとって短歌は経済とは無関係です。
ですから、例会を開いて万が一誰かが感染したら?と恐れるのです。
いかんせん高齢者が多い短歌の世界。命にかかわる問題になります。
通常20~30人くらい集まります。
十分に換気をして、マスクをして、密にならないように
と、最善と思われる対策を講じても、感染しないとは限らないのです。
無論、役員に責任は負えませんし、出席の判断をした本人の責任でしょう。
しかし、その家族が「例会なんか開くからだ!」と嘆かないとも限りません。
会場ではなく、移動中の電車やバスで感染するリスクもあります。
この論理はコロナウイルス以前の生活の中で、
「交通事故に遭うかもしれない」から外出しないことと同じかも知れませんが、
少なくともワクチンが開発されて一般的に使われるようになるまでは
例会中止もやむを得ないのではないか?と、思うわけです。

7/5(日)には日本短歌総研のメンバーで
仮称「現代短歌ウィーク」の会場の下見及び打ち合わせをすることになっています。
こちらも同様の心配がないわけではありません。

飛行機は落ちるかもしれないから乗らないという用心と
コロナ感染が怖いから出かけない、集まらないという用心と
同じ用心なのかどうか。
もう少し考えてみたいと思っています。

厄介な世の中になったものですが
これはコロナウイルスのせいなのか?
私たちの考え方のせいなのか?
恐れていたら何もできないじゃないか?ということなのか。
生業と短歌は私に必要なものですが、性質は全く違うものです。

リスク対応も違って当然ということになるでしょう。

おしまい。