詩歌探究社 蓮 (SHIIKATANKYUSYA HASU)

詩歌探究社「蓮」は短歌を中心とした文学を探究してゆきます。

幸せになりたかったら。

2021-01-11 10:07:09 | 千駄記


1/11(月) 曇
ステイホーム呼びかけの三連休最終日。
本日出勤5名くらい。

NHKで再放送された開高健の映像を見て思い出したことがある。

1時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい。
3日間、幸せになりたかったら結婚をしなさい。
8日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい。
永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい。

中国の古い諺だとのちに知ったが、私は開高健に教わった。
永遠に幸せになりたかったから釣りを覚えた。

会社を潰して間もない兄貴のように慕っていた社長と
川崎にハゼを釣りに行ったのが始まりだった。
開高健は「釣り師は心に傷を負っている」とも言った。
兄貴分と私は痛みを堪え釣り竿を並べた。
釣り糸を垂れている時も苦悩は始終付き纏っていたが、
魚が掛かればすべて吹き飛び、魚とのやり取りに夢中となった。

諏訪湖でワカサギを、利根川でウナギを、剱崎でマダイを、
館山でイカを、式根島でキンメを、知床でサケを、
室戸岬の沖でムツを、対馬でマグロを狙った。

水族をもっと知りたくなって海に潜るようになる。
もっぱら伊豆に通ったが、最後は沖縄の慶良間諸島まで出かけ、
ウミガメもマンタもわがものとした。
そうこうしているうちに、私は気づいたのである。

水族には水族の暮らしがあって命を生きていると。
魚を食べるのは好きだったが、魚を獲るのは漁師に任せて、
私は私の満足のために魚の命を奪うのをやめようと思ったのだ。
当時、流行り出したキャッチ&リリースだって魚の命を
わが楽しみのために弄んでいるのだとさえ思った。

「器用だが才能がない」。
これは開高健の芥川賞選考の時のコメントだが、
短歌を作り続けていた私が言われたようなものだと思った。
自分の短歌をどうしたら見てもらえるか。
そこで思いついたのが、わが個人誌「晴詠」のスタイルだった。
虫を描き短歌を添える。魚を描き短歌を添える。
絵を描く手間を省くために写真を撮ることを始めた。
それが野鳥の撮影であった。

野鳥撮影は釣りに似ている。
一日待っても狙った野鳥が現れないこともあるし、
撮り逃がすこともある。
シャッターを一度も切らない日だってあるのだ。

鳥を待っている間も苦悩は私を付き纏って離れないが
鳥が遥か彼方に現れると急いでピントを合わせ夢中でシャッターを切る。
狙った獲物を仕留める釣りの感覚とよく似ている。

釣りをしていなかったら出会えなかった風景や
潜水をしなかったら見られなかったはずの光景を
いくつも見たが、野鳥を探していなければ
出会えなかったであろう景色もたくさん見た。

私はこれでよかったのだと死んでゆくに違いない。


おしまい。