ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

「こだわり」のひとつ

2007-08-11 12:20:17 | 郷里山形の事
小生には意外にこだわりが多い。現役中にもそんなこだわりが、他人や上司の受けが決して良くなかったと思う。
どうも若い時からだったらしく、何時だったか何十年ぶりかに出会った、独身寮時代の同僚にも「君は入社した頃から変わっていたよ」と言はれた事があった。
亡き母親の実家が山形では老舗の「寿司や」だった。母が子どもの時から地元の劇場に歌舞伎芝居を呼んでは興行していたらしい。それを見て育った母親が、芝居の楽しさを良く語って聞かせてくれた。そのせいか大阪では歌舞伎をよく見にいった。さらに薄給の身ながら映画やアメフット等を見たり、旅行等を楽しむ小生は実に変わった存在だったらしい。

そのこだわりのひとつが、この時期のお盆や正月やゴールデンウイーク時のお出掛け渋滞拒否症だ。

企業に入社して大阪の独身寮に入寮したが、入社した年の正月も帰省せず、寮で年を越す事にした。
独身寮は寮母達も正月休みで不在になる。心配した先輩の寮長のNさんが帰省を勧めてくれた記憶がある。
帰省しない理由は明白だった。当時はまだ新幹線もなく、大阪から東京まで、さらに上野から山形までの汽車での移動が実に大変だったからだ。それに正月時にあの混雑した東北線で福島で乗換え、さらに奥羽本線での長時間の移動には耐えられなかったからだった。
確か東北や北海道の方も同じ理由で寮に残っていた筈である。
しかし良き時代でした。職場の先輩の女性達が着飾ったままで「おせちやお餅」を持参してご馳走して呉れたのでした。
その時分から正月やお盆休みを外して休暇をとる様になった。

その後は新幹線や航空機の発達で、繁忙期の移動も随分に楽になりました。
しかし家族が増えるに従い乗用車による移動等もが多くなると、やはり渋滞に遇うのが苦衷の種でした。
それでも子どもたちやカミさんの要望で出掛けては、渋滞の中を延々と走った事も多くあったのでした。
一度困ったのは、母親が亡くなったのが丁度8月11日でした。意を決して家族は乗用車で出掛ける事にしたが、どこも渋滞中、常磐道からいわき市に行き、郡山の東北道に廻りそれでも、通常の倍は時間が掛かった記憶がありました。
そして帰宅するのに何十キロかの渋滞との戦いでした。

それからは決して渋滞の予想される時期でのお出掛けは拒否する事にしたのでした。幸いに現在はどうしてもこの時期に出掛けたいと思う事もないからです。

コメント (2)
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