ピーナッツの唄

毎日の出来事や、スポーツ観戦、読書や映画等の感想を中心に、好奇心旺盛に書いています。

死に際で判断するな

2007-12-28 21:14:43 | 勉学
朝日新聞の木曜日夕刊のコラム「日々是修行」、花園大学教授佐々木閑氏。
先週の記事では「立派な人は立派な死に方をする」という考え方は危険だ。世界に類のない知恵深い仏教という宗教をつくった「お釈迦」さまのような方でも、普通にただの食中毒で死んだのだ。とはじまるコラムを読んだのでした。
この方の仏教に関するコラムは毎回示唆に富んだ内容であり、毎週楽しく読ませて頂いている。

死に際の良し悪しは運の問題だという。心根の悪い人や愚かな人でも、運がよければきれいな死に方をする。
誠実に生きても、運悪く痛みの激しい病にかかれば、泣いたりわめいたりしなければならない。それはその人の価値とはなんの関係がない。たんなる遇然のことなのである。
最後の最後、つらい病に耐えかねて「痛い、苦しい、助けてくれ」と叫ぶことがあるかもしれない。だからといってそれがその人の人生が「情けない人生であった」ことにはならないと説く。
死に際の姿で人を判断してはいけない。人生の意味は、その人が生きてきた人生全体にあるからだ。
長く続いてきた日常の中で、毎日積み重ねてきた行いや思いが、少しずづ積み重なって、自分でも気づかないうちに人生をかたちづくっていく。たとえ人生の最後が悲惨であったり、苦しいものであったとしても、そんなことですべてが否定されるほど、人の一生は薄っぺらではないのです。
死にゆく者も、送る者も、そのことを心に掛けて欲しいと続く。安らかに逝く人の姿は素敵だが、それよりも「誇りをもって自分の正しい生き方を決めていく人の姿の方がもっと素晴らしい」と説明されています。

人間の価値はどうしても結果を評価しがちだが、どう生きてきたか、どんな努力をしたかが問われると思う。
いつ何時、死を迎えるかもしれません。その時自分の生き方はどうだったか。これからの人生悔いの残らない生活を送りたい。
そんな意味で今回の佐々木先生のコラムは、まさに人生のあり方の示唆に富んだ内容と思い紹介した次第である。

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