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麻婆豆腐命名の訳

2016年01月21日 | 日々の出来事

麻婆豆腐命名の訳を、クイズにだし答えを次回と

書いておきながら、前回忘れてしまいました。

遅ればせながら、今回臨時投稿で、お答えします。

広州滞在中に、現地の長老から教えてもらった話なので、

まず間違いないと思います。

 

広州からそう遠くない町に、豆腐を売って生活するお婆さんがいました。

広州から遠くない町は、結構気温が高く、冷蔵設備の無い時代では、

売れ残った豆腐は、腐ってしまい赤字になってしまいます。

そして、運の悪い時は重なるもので、その婆さんは天然痘に、

かかってしまいました。

転んでもただ起きない気丈なばあさんは、治療を受けている間、

《豆腐を腐らせずに奨えばいできないか》と考えていました。

 

偶々見舞いに来てくれた、町一番のお年寄りのお婆さんに、

泣き言混じりに話しました。

長老のお婆さんは、得たりとばかり、「唐辛子を入れて煮込んでご覧」

中国では、年寄りを老師(ラオシ)と敬いますが、他に情報を得る

手段の無かった時代、貴重な知恵袋だったのですね。

日本でも昔、《おばあちゃんの知恵袋》と言いましたね。

 

さて、天然痘の完治したお婆さんは、唐辛子を中心とした辛みを調合して、

豆腐を煮て売り出しました。

たちまち、「麻婆の豆腐」「麻婆の豆腐」と、大評判になりました。

 

 

さて、麻婆の豆腐と大評判になった麻婆とは、どういう意味でしょうね。

お婆さんは、天然痘にかかりましたね。

天然痘は、体中に吹き出物が出来て、治った後ボコボコ穴が開き

ましたが、本人も町の人々も違和感を持たなかったようです。

麻とは、ボコボコ穴が開いている様で、そういう姿のお婆さんだから・・・

 

その街の人々は、貧しかったけれど心豊かだったのでしょうね。

 

納得して頂けましたか?


文革時代の余暇

2016年01月20日 | 日々の出来事

前回、中国での食事など、生活の一面を紹介しましたが、

今日は、私の余暇の過ごし方をお話します。

 

日曜日は、退屈しないようにと言う、心遣いといわれていましたが、

当時の中国の、改革開放後の自慢話に、お付き合いしました。

夜は大体決まって映画鑑賞です。

日本軍が進撃してくると、必ず一人の英雄が現れ、目覚ましい成果を上げ、

映画館内は拍手喝さいが起こります。

「関東軍は悪いですが、日本人民は善良です」とて、

日本人民の私にも「一緒に喜んでください」という。

ちょっと複雑です。

ベトナムでも、フランスと戦う時、必ず一人の勇士が現れ、

フランス軍を撃退します。

この時も、善良な日本人民に、スタンディングオーベーションに、

おつき合いします。

 

そうそう、平日のお昼休みは、彼らは決まって革命歌・・・

《東方紅》《革命こそ勝利》など、東方紅とは毛沢東の生地のことらしい。

日本に来たことのある通訳は「日本の歌謡曲よりよっぽど楽しいでしょう」

お世辞にも頷くことは出来ません。

 

 

 

 


中国広州の思い出(料理編)

2016年01月17日 | 日々の出来事

中国で、一番心を砕いたのは、当然ながら文革の渦に巻き込まれないこと。

後は食の問題、中国料理には、結構香草が用いられその香草が鼻について、

最初から閉口したものです。

そこで、ホテルではウエイトレス達に話して、香草抜き料理や、

豆腐とネギの日本的味噌汁を注文したり、結構我侭に過ごしていました。

 

 

日常の食生活は、それでほぼ満たされましたが、困ったのは宴会の多いことで,

その宴会の習慣の違いです。

その幾つかを挙げてみましょう。

、丸い大きなテーブルを囲んで座りますが、私の隣に座った中国人は、

自分の食べたいものを、勝手に採って食べてくれればいいものを、

必ず私のお皿に取ってくれた上、自分のお皿に取ります。

中国的もてなしだそうですが、私の両サイドでやる訳ですから、

たまったものでは有りません。

例えば、ナマコは日本で食べたことが無かったのに、中国人は大好きなんです。

 

、アヒルの水掻きの煮付け、水かきを取った後の足の、煮付けにも閉口しました。

 

、野菜の煮付けも良く出されました。

「改革開放後生産性が上がり、開放前の2倍になりました」と自慢話付きです。

私の感想は、〈塔立ちするまで畑に置くから、硬くて材木食っているようだ〉

 

まだ色々有りますが後に譲って、一つ問題を出しましょう。

麻婆豆腐は日本人も結構好きな人が多いようですね。

ところで、この豆腐を辛く煮た料理が、麻婆豆腐と名付けられた訳は?

正解は次回に

 


初めての海外の旅

2016年01月14日 | 日々の出来事

1966年、文化大革命で破壊された、広州市のNO1ホテル、羊城賓館

前に有った伝説の像(当時はカラー写真が無いので、白黒です)

 

 

私が、初めて海外出張したのが1966年で、中国の広州でした。

まだ、国交正常化はしておらず、時の総理は日本は田中角栄、

中国は周恩来両首相で、日中国交正常化調印は1972年、

私が中国に出かけたのは、これより七年も前の事です。

勿論日本では中国の入国ビザが取れず、先ず香港へ行き

2日間掛けてビザを取りました。

香港から汽車で国境まで行き、国境を歩いて中国に入り、

又汽車に乗って広州に入りました。

折りしも、文化大革命の最も激しい時期で、何回か怖い思いもし、

恐ろしい事件を目の当たりにしました。


先ず、ホテルを出てから戻るまで、通訳は兎も角、

共産党政治局員が同行します。

スパイ行為の監視の為です。


写真を撮る場合は、この政治局員に許可を取らないと疑われ、

間違えばスパイ容疑が掛かります。

街で中国人と話をしても怪しまれ、寧ろその中国人は、

速やかに何時・何処で・誰と・と゛んな話をしたかを報告しないと、

スパイ容疑と言うより、スパイとして、連行されます。

 

写真は、私の滞在した広州市の、羊城賓館の玄関先の丘に

建っていた伝説の羊の像ですが、ある朝、紅衛兵によって、

予告もなく壊されていました。

 

過って中国南部では、食料が不足して、多くの人民が飢えに苦しみ、

多くの餓死者も出していました。

ある日、何処からともなく、羊か稲穂を加えてやって来ました。

人々は、その稲穂を撒いたところ、忽ち大豊作となりました。

人々は、その羊に感謝し、子々孫孫まで伝えようと、

町の中心部の目立つ処に、大きな羊の像を建てたのでした。

 

時は立ち、文化大革命が中国全土を襲いました。

羊城像破壊の理由は、「伝説ではひもじさは癒えない」でした。

中国に入って一カ月、一瞬たりとも、恐怖心なと゛

持ち合わせなかった私に、此の頃から、言い知れぬ恐怖心

のようなものが、胸につっかえるようになりました。 

                                  続く


一月の花(1)

2016年01月12日 | 日々の出来事

今日は、私の花壇の花を、紹介しましょう

最初は、昨年暮れに寄せ植え しておいたら、元気に花を咲かせています。

 

 

今年初ものの、クリーンネックレスの花が咲きました。

うっかり寒気に当ててしまい、緑の玉がくすんで、汚らしくなってしまいました。

 

 

パーシーカラーも咲いています。

 

 

零れ種のビオラです。ビオラは強い花ですね。

 

 

今年は、孫娘が大学受験で、もうすぐセンター試験です。

父親は、私の耳元で「一浪は覚悟しています」と、こっそり・・・