行って来ました新潟県最西端の町、糸魚川市です。
2016年に糸井川の大火と大変なことがあった町です。
かねてよりここには来たかったのです。
なんせ、旧北国街道最強難関の親不知がある場所ですから。
越後国(新潟県)に突入!
県堺の町、市振(いちぶり)の街道の町です。
ここには幕府が管理した市振の関所がありました。
しばらく進むと
奥の細道市振の宿桔梗屋跡とあります。
松尾芭蕉と曽良が泊まった「桔梗屋」で、隣り部屋に伊勢参りの遊女の二人ずれが泊まり、道中の同行を乞われたが断ったとされている。
弘法の井戸。
そして町の端にある海道の松です。
これより先に旧北国街道最大の難所である親不知(おやしらず)が控えているのです。
さてと、
いよいよ向こうに見える最難関、親不知へ向かいます。
到着!
ここに来たかった。
街道一の最難関というその理由、ここは道を歩くのではなく
なんと海を歩いて通らなければならないのです。
オイラも昔はここの道は片側が断崖絶壁の細い道かと思っていました。
三国志の蜀の国にある桟道のようなイメージ。
そんなレベルではなく、ここでは海を歩くのだ。(まじかいや・・・)
それがわかる場所があります。
行ってみよう
海岸に下りていく。
急な下り坂
途中に面白いモノがあった。
かっての鉄道用のトンネルだ。
鉄道省時代です。
恐っ!
さらに下りる。
松尾芭蕉も歩いた海岸とある、もうワクワクです
あそこだ。
到着
まずは、ちゃぷちゃぷ
そして、ここが旧北国街道なのです。
当然、昔は今降りてきた階段なんかありません。
この海岸沿いを歩いていたことになるのです。
加賀方向はこちら!
ここを行くのです
そう、その岩の右手の海に入り通って向うへ行くということなのです。
こんな感じで・・・
昔はもう少し浜があったようですが、それでも波が押し寄せる超危険な場所だったのです。
江戸方向はこちら。
こりゃなんとも大変だわ。
大名行列など重要な一行が通る場合は(当然偉い人は駕籠に乗っていますが)、
この辺りの住民男性を駆り出して、ふんどし一張になった男達を海側に並ばせて、波消しブロックならぬ波消し集団の内側を一行が通過したという。
いやぁ凄いものです。
それにしてもなぜ崖上に道を作らなかったのだろうか?
加賀藩なら街道整備も可能であったはずなんだけど、
事実、越中黒部川の難関場所も上流に愛本橋という日本三大奇橋を架けて改善しています。
おそらく江戸幕府が許さなかったのでしょう。
江戸に通じる道が困難であればそのまま改善させないのが江戸防衛上の対応だ。
有名なのは東海道の大井川ですね、決して橋を架けさせなかったからね。
この親不知も加賀藩に対する防衛戦略かもしれませんね。
はいこの場所に来れてよかった。
この状況をナマで見たかったんです。
戻ります。
国名勝 奥の細道風景地 を歩きます。
おっ
親不知の街道の模型があります。
これはいいね。
ここは、こういう状況なのです。
タッタッタッと走って、
なんとも凄い・・・。
⑩の場所は絶壁に南無遍照金剛と刻まれており、ここからはもう大丈夫というところだそうです。
まさにこの下にそういう場所があるということなのです。
あ~来れてよかった。
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2016年に糸井川の大火と大変なことがあった町です。
かねてよりここには来たかったのです。
なんせ、旧北国街道最強難関の親不知がある場所ですから。
越後国(新潟県)に突入!
県堺の町、市振(いちぶり)の街道の町です。
ここには幕府が管理した市振の関所がありました。
しばらく進むと
奥の細道市振の宿桔梗屋跡とあります。
松尾芭蕉と曽良が泊まった「桔梗屋」で、隣り部屋に伊勢参りの遊女の二人ずれが泊まり、道中の同行を乞われたが断ったとされている。
弘法の井戸。
そして町の端にある海道の松です。
これより先に旧北国街道最大の難所である親不知(おやしらず)が控えているのです。
さてと、
いよいよ向こうに見える最難関、親不知へ向かいます。
到着!
ここに来たかった。
街道一の最難関というその理由、ここは道を歩くのではなく
なんと海を歩いて通らなければならないのです。
オイラも昔はここの道は片側が断崖絶壁の細い道かと思っていました。
三国志の蜀の国にある桟道のようなイメージ。
そんなレベルではなく、ここでは海を歩くのだ。(まじかいや・・・)
それがわかる場所があります。
行ってみよう
海岸に下りていく。
急な下り坂
途中に面白いモノがあった。
かっての鉄道用のトンネルだ。
鉄道省時代です。
恐っ!
さらに下りる。
松尾芭蕉も歩いた海岸とある、もうワクワクです
あそこだ。
到着
まずは、ちゃぷちゃぷ
そして、ここが旧北国街道なのです。
当然、昔は今降りてきた階段なんかありません。
この海岸沿いを歩いていたことになるのです。
加賀方向はこちら!
ここを行くのです
そう、その岩の右手の海に入り通って向うへ行くということなのです。
こんな感じで・・・
昔はもう少し浜があったようですが、それでも波が押し寄せる超危険な場所だったのです。
江戸方向はこちら。
こりゃなんとも大変だわ。
大名行列など重要な一行が通る場合は(当然偉い人は駕籠に乗っていますが)、
この辺りの住民男性を駆り出して、ふんどし一張になった男達を海側に並ばせて、波消しブロックならぬ波消し集団の内側を一行が通過したという。
いやぁ凄いものです。
それにしてもなぜ崖上に道を作らなかったのだろうか?
加賀藩なら街道整備も可能であったはずなんだけど、
事実、越中黒部川の難関場所も上流に愛本橋という日本三大奇橋を架けて改善しています。
おそらく江戸幕府が許さなかったのでしょう。
江戸に通じる道が困難であればそのまま改善させないのが江戸防衛上の対応だ。
有名なのは東海道の大井川ですね、決して橋を架けさせなかったからね。
この親不知も加賀藩に対する防衛戦略かもしれませんね。
はいこの場所に来れてよかった。
この状況をナマで見たかったんです。
戻ります。
国名勝 奥の細道風景地 を歩きます。
おっ
親不知の街道の模型があります。
これはいいね。
ここは、こういう状況なのです。
タッタッタッと走って、
なんとも凄い・・・。
⑩の場所は絶壁に南無遍照金剛と刻まれており、ここからはもう大丈夫というところだそうです。
まさにこの下にそういう場所があるということなのです。
あ~来れてよかった。
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