音読の流行とともに、「Input - Intake - Output」と言う表現はこの業界で一番のバズワードになった感がある。「文法」、「タスク」、「コミュニカティブ・アプローチ」などの用語と同じく、意味・解釈は使う人によって微妙に異なり、これが誤解のもとになる。
たとえば、「コミュニカティブ・アプローチ」という言葉は専門的にも欧州評議会によるいわゆる狭義のコミュニカティブ・アプローチと、コミュニケーションを通じた指導法という広義のコミュニカティブ・アプローチというかなりニュアンスの異なる別の枠で使われる。しかも、それだけでは済まずに、定型会話のドリル型ペアワークをコミュニカティブ・アプローチだと考えている人もいるという具合だ。
「Input - Intake - Output」には、それなりの歴史があるので、それを踏まえて考えると、逆に何か新しいものも見えてくるかもしれない。私の認識もかなり怪しいのだが、過去20年くらいの高校英語教育の現場で(少なくとも私のまわりで)起こったことの俯瞰にも繋がるのだろうということで、今回からシリーズの記事にまとめてみることにする。
そもそものはじまりは、クラッシェンのインプット仮説だ。クラッシェンは言語は学習でなく習得により獲得されるとし意識的な学習を否定した。(もちろん、その下地はチョムスキーの普遍文法である)
クラッシェンは、現有言語力をほんのちょっとだけ超えるレベルの目標言語素材を大量に与えることにより言語力を伸ばすことができると考えた。これがいわゆる「i+1」(理解可能なインプット)であり、ヴィゴツキー的に言えば「発達の最近接領域」である。
クラッシェンが重視したのは、「意味を理解する経験をたくさん積むこと」であり、それさえ続ければ、ある時点において自然に発話が始まると考えていた。赤ん坊の言語習得と同じ過程である。だから、クラッシェン(+ティレル)の提唱した教授法はナチュラル・アプローチと呼ばれる。「多読」も基本的にはこの考えをもとにしている。
今はある程度の距離を置いて言及されることが多いのだろうが、少なくともある時期、クラッシェンは非常に大きな存在であり広範囲に影響を及ぼした。
私がクラッシェンに傾倒していたのは、95年~00年くらいの間である。2校目の高校へ転勤した当時で、同僚のうち約半数がいわゆるオールイングリッシュの授業を展開していた。当時、クラッシェンの考え方に基づき、英語で授業を進めること(当時流行していた言葉で言えば英語のシャワー)が、英語力獲得のための最良の方法だと考えられていたためである。そして、実はそれらの同僚をオールイングリッシュの授業へと方向転換させたきっかけになったのは、当時の文部省による英語教員のための中央研修なのである。
たとえば、「コミュニカティブ・アプローチ」という言葉は専門的にも欧州評議会によるいわゆる狭義のコミュニカティブ・アプローチと、コミュニケーションを通じた指導法という広義のコミュニカティブ・アプローチというかなりニュアンスの異なる別の枠で使われる。しかも、それだけでは済まずに、定型会話のドリル型ペアワークをコミュニカティブ・アプローチだと考えている人もいるという具合だ。
「Input - Intake - Output」には、それなりの歴史があるので、それを踏まえて考えると、逆に何か新しいものも見えてくるかもしれない。私の認識もかなり怪しいのだが、過去20年くらいの高校英語教育の現場で(少なくとも私のまわりで)起こったことの俯瞰にも繋がるのだろうということで、今回からシリーズの記事にまとめてみることにする。
そもそものはじまりは、クラッシェンのインプット仮説だ。クラッシェンは言語は学習でなく習得により獲得されるとし意識的な学習を否定した。(もちろん、その下地はチョムスキーの普遍文法である)
クラッシェンは、現有言語力をほんのちょっとだけ超えるレベルの目標言語素材を大量に与えることにより言語力を伸ばすことができると考えた。これがいわゆる「i+1」(理解可能なインプット)であり、ヴィゴツキー的に言えば「発達の最近接領域」である。
クラッシェンが重視したのは、「意味を理解する経験をたくさん積むこと」であり、それさえ続ければ、ある時点において自然に発話が始まると考えていた。赤ん坊の言語習得と同じ過程である。だから、クラッシェン(+ティレル)の提唱した教授法はナチュラル・アプローチと呼ばれる。「多読」も基本的にはこの考えをもとにしている。
今はある程度の距離を置いて言及されることが多いのだろうが、少なくともある時期、クラッシェンは非常に大きな存在であり広範囲に影響を及ぼした。
私がクラッシェンに傾倒していたのは、95年~00年くらいの間である。2校目の高校へ転勤した当時で、同僚のうち約半数がいわゆるオールイングリッシュの授業を展開していた。当時、クラッシェンの考え方に基づき、英語で授業を進めること(当時流行していた言葉で言えば英語のシャワー)が、英語力獲得のための最良の方法だと考えられていたためである。そして、実はそれらの同僚をオールイングリッシュの授業へと方向転換させたきっかけになったのは、当時の文部省による英語教員のための中央研修なのである。